2010年11月20日土曜日

業務事例11:福島県三島町早戸地区散策路修景

奥会津地方三島町早戸温泉の只見川沿いの散策路の空石積工およびソダ柵工による修景を東北芸術工科大学廣瀬研究室、渡部研究室の実習を兼ねて行った。
当該事業は地元住民により補助事業として既に実施されていた事業であったが、廣瀬准教授の発意に基づき、地元の事業主体者である佐久間氏との合意と福島県の仲介によって、地域活性と景観形成、学生の社会参加および技術習得、地域交流を目的として行われた。これに伴い田賀意匠事務所として、事業のサポートと指導に協力、実際に事業実施に立ち会い、実際の作業をおこなった。

4月初旬、事前踏査をおこなう廣瀬准教授と渡部講師、会津若松建設事務所の瀧本氏

雪景色の只見川

早戸温泉「つるの湯」の窓から只見川がみえる



当該事業は修景事業といっても、地域の自然環境と風土に対して、必要最低限の土留め、雨水の排水の経路の確保、間伐、伐採木の整理、散策路と緑地との結界の形成を空石積工とソダ柵工によって行い、華美な意味での修景は行っていない。


早戸地区を流れる只見川の風景、元々は深い渓谷だったが電源ダ
として戦後に開発されゆっくりとした水面の河川となっている。


散策路のソダ柵工(渡部氏撮影)

現地から産出された石材で土留を空石積みでおこなう

空石積みを地元の人(秦さん)に教えてもらいながら実習する学生たち


この只見川沿いの散策路は住民の意向と計画によって整備が進められ、地元早戸集落の人々の手によって放棄生産林の間伐、地域の山野草の育成などを行っている。現在、少し明るくなった只見川河畔の林床ではショウジョウバカマ、エンレイソウ、オウレンの類、カタクリなど様々な里の植物が見られるようになってきている。

なお、この事業の様子については、以下の東北芸術工科大学のブログにも廣瀬氏によって記述されています。参照ください↓。

2010年11月10日水曜日

朝市のために(脇町)

脇町ではじめた朝市では、それぞれがつくってきた農作物を売るだけでなく、色々な人たちが集まってきて、情報交換をしたり、新しいことが学べたりと、楽しんで参加できるようなものにしていきたいと考えている。それは僕がそう思っているだけではなく、参加している個人の農家の人たちもそう感じているようだ。

考えてみれば、農業というのは毎日9時から5時までが仕事、月曜日から金曜日が仕事、と決まっているわけではない。春夏秋冬があり、時期によって日の当たる時間も、気温も違う。晴れの日があり、雨の日があり、風の日がある。それを自分で決めるわけにも行かず、それを色々やりくりしながら、農作物をつくっている。

仕事も、家事も、農作業も、休みや団欒も一緒になって色々組み合わせて成り立っている。ここからここまでと割り切ってできるものでもない。だから、生産も消費も、すべてが旨く組み合わさって、心地よく生活できることが大切なのだ。

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朝市も、ただ売るだけ買うだけ、ではなくて、生活の行為として心地よくできることが大切だ。そうやって生活するために多少のお金も必要であるということに過ぎない。お金を稼ぐために、生活がつまらなくなってはいけないのだ。

経済的に成り立つことを勿論大切なので、真剣さもある。しかし、生きている事の大切さや、意味を失わないように、バランスを取りながら皆前向きにとりくんでいる。

写真は2月18日に、金垣さんのパン工房で、皆がつくった作物で、簡単な料理をつくり会食をしているところです。農業も都会で考えるよりはるかに近代化されてきています。良いこともありますが、コミュニティが薄れてきているところもあります。地域の現代生活にあった新しいコミュニティをつくっていったり、自分達の地域の環境を勉強出来る場が必要になっているように思えます。

そんななか、このように皆が楽しんでより集まってこれるような場や関係ができていく事はとても大切で貴重なことなのだと思います。

これまでにも、売り場に農作物を出す時の表示の仕方、お米の表示の仕方、新しい農作物の品種、自家採種についてなど、朝市の事前ミーティングを通して、話題に出たことを、食料事務所(現農政事務所)の職員や徳島県脇町農業改良普及センターの職員を招いて、勉強会などをしています。僕も会のスパーバイザーとして参加させてもらっています。考え方や企画を皆さんと一緒に考えて、まとめていくことが僕の役割です。集まっていらっしゃる皆さんから勉強させてもらう事も沢山あります。(2004.06.28記す)


後日、
朝市ではどんなものを売るのか、どうしたら良いものが提供できるのか、どうしたらもっと楽しくなるのか、皆で考えながらやっている。

バックアップしてくれている徳島県の農業改良普及センターの担当者が林さんから新しい方に変わった。近藤さん、多様化の時代、貿易自由化の時代によろしくお願いします(2004.07.06記す)。

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(2004年5月28日撮影)

氾濫原に住むということ

現代日本人の多く住んでいる場所は、沖積層の上にある。取り分け河川の氾濫原といわれる低地の下流部に集中している。河川の性質からすると洪水のおこりやすい場所に住んでいるといえる。洪水のおこりやすい場所というのは、山から豊かな栄養素やミネラルが供給され、肥沃な土地であるともいえる。だから、先人たちは洪水との折り合いをつけながら生活を豊にし、経済を活発にしていこうと、時代を経て氾濫原に移り住むようになってきたのである。(図は南アルプス市の狭西遺跡群にみられる立地の時代的な変遷を示している。一昨年前の南アルプス市の調査業務の際に郷土史より見つけたものを見やすく修正した図である。だんだんと低地部の氾濫原近くに移り住んできたことが事例としてよくわかる。多かれ少なかれ、どこの地域でも似たような傾向があると思う。)

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しかしながら、低地部の氾濫原はもともと洪水のおこりやすい場所であることには変わりはないし、現代日本人の多く住んでいる場所は、沖積層の上にある。取り分け河川の氾濫原といわれる低地の下流部に集中している。河川の性質からすると洪水のおこりやすい場所に住んでいるといえる。洪水のおこりやすい場所というのは、山から豊かな栄養素やミネラルが供給され、肥沃な土地であるともいえる。だから、先人たちは洪水との折り合いをつけながら生活を豊にし、経済を活発にしていこうと、時代を経て氾濫原に移り住むようになってきたのである。(図は南アルプス市の狭西遺跡群にみられる立地の時代的な変遷を示している。一昨年前の南アルプス市の調査業務の際に郷土史より見つけたものを見やすく修正した図である。だんだんと低地部の氾濫原近くに移り住んできたことが事例としてよくわかる。多かれ少なかれ、どこの地域でも似たような傾向があると思う。)



しかしながら、低地部の氾濫原はもともと洪水のおこりやすい場所であることには変わりはないし、河川にとっては、氾濫を起こすことが自然の摂理であることには違いがない。そのことをだんだん人は忘れてしまったり、分からなくなってしまっていたりする。そして、ある日突然、川が氾濫を起こした時に慌てふためく。

私たちはいつの時代にも、日常の豊かさとの引き換えに、どのようなリスクを背負っているのかある程度意識している必要がある。洪水のときの排水路として川をコンクリートで固めたり、運動公園などにしてしまう前に、ほどよい川とのつきあい方をよく考えるべきだ。そして、日常的に近くの川の姿を眺め、川にふれることが必要なのだと思う。洪水時には凶器となる川の流れも、土地を肥やしてくれる大事な摂理だし、ふだんは我々の心や体を癒してくれる大切な空間なのだから・・・・。

そんなことを考えていたら、環境分析学の専門家であるジョン・エリクソンの文章をみつけた。参考程度に一文を抜き出しておこう。

「洪水というのは本質的に人災であるといってよい。洪水は自然現象であり、繰り返し生起するものである。氾濫原に人が住み着くとき、それは災害と呼ばれることとなる。氾濫原というのは洪水時に余分な水を通過させるためのものであり、人がそのことを深く理解しないために、氾濫原に無計画に開発行為を行い、その結果として水害の増大を招来するのである。氾濫原は平坦な地面、肥沃な土地、交通や水の便を提供するものの、経済性の観点が優先するとき洪水の危険を十分に考慮することなく開発が進行する。このことの帰結の一つは、政府が介入し、洪水の被害救済の責任を負うという事態である。アメリカでは、1936年以来90億ドル以上の費用を洪水防止に投じている。

こうした治水計画の進展にもかかわらず、平均的には年々洪水被害は増加している。それというのも、治水の進展の速度以上に人々が洪水被害を受けやすい地域に移り住もうとしているからである。すなわち、被害の増大は洪水そのものが激しくなったせいではなくて、人々が氾濫原に進出することの結果としてもたらされているのである。人口が増加すれば、不用意に氾濫原を開発しようとする社会的圧力が増大する。そして、ひとたび人々の財産が亡失すると、政府が救ってくれることを願うのである。」
(「海洋の神秘」ジョン・エリクソン著 大隅多加志訳 オーム社出版 p163より)

2004.12.31記す

ツルシキミ

11月10日、仕事で箱根に調査に出掛けた。
調査した付近の雑木林の林床にヤブコウジに似た赤い実をつける常緑の葉がちらほらと見えた。

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葉の縁に鋸歯(ギザギザ)がないのでヤブコウジではない。ほかに地に近く赤い実をつける植物というとセンリョウ、マンリョウなどがあるが、いずれも鋸歯があるのでこれも違う。
葉を一枚もぎ採り、葉を透かしてみると油点がみえる。

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油点はミカン科の植物の特徴だ。クシャクシャと葉を揉んで匂いを嗅ぐと、柑橘系から化粧香にグラデーションする。あきらかにミヤマシキミかツルシキミに違いない。
枝は直立せず地面を這っている。そして、あまり枝分かれしていないところをみるとツルシキミとみて間違いない。仏前や墓前に備える植物としてサカキやシキミがよく供えられるが、本種ツルシキミまたはミヤマシキミを尊ぶところもあるという。たしかに香りならサカキやシキミよりも本種を選ぶということもなんとなく頷ける。

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箱根ではちらりほらりと見かけるだけであったが、四国、阿讃山脈(讃岐山脈)山頂付近ではシデの林内にツルシキミが群生する。(下の写真は群生するツルシキミ、040602大滝山・高松市)

(2006.11.19記す)

セリ

せり なずな
おぎょう はこべら ほとけのざ
すずな すずしろ これぞ七草

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ちょっと、春の七草の季節はおわりという気もするが・・・・。
七草のなかでも、好きなのはセリ。癖の強いものが苦手な人には向かないかもしれないが、その香りがたまらない。春の香りというか、すがすがしいというか。やはりスーパーで売っているものよりも、山取りしたものが、香がたかく格別である。たんぼの畦や小川のほとりなどに生えている。しかし、間違ってもドクゼリには手を出さないように。ドクゼリは根茎が特徴で、太くて節のあるヤマイモのようなかたちをしている。猛毒性分をもっているので、よく調べてから食べないとどうなっても知りません。どんな山菜でもよく調べて、判別に自信のないものは食べるのをやめましょう。(2005.05記す)

ミズカンナ

連休、人並みに休日を過ごしたいと思いながら、前夜にありがたいことに、次回の仕事の資料をいただき、それとは別に連休開け提出の仕事をいただいた。
前半は仕事の準備、後半は仕事ということで、連休中は静かな都心環境で仕事をする。
ということに相成りました。初日ぐらいはゆっくりとということで、近所の小石川植物園に行き、久しぶりに自由な植物観察をしてきた。

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小石川植物園の池に浮かぶ水性植物、ミズカンナという。
アメリカ原産の大型の常緑の水生植物だ。常緑なので他の植物園のものをみると青青としているが、ここのはいつ見ても枯れ茎と枯葉にまみれている。そこはかと、緑の葉と茎がみえる。僕としては、枯れたところと青青としたところが混在しているこの植物園のミズカンナに趣を感じる。生と死、若さと老いが同居しているミズカンナの様が何か真実を語っているようにみえるのである。

今、小石川植物園はツツジとフジが満開でそれを見にくる来訪者が多い。花の咲く時期しかその植物をみれない、あるいは見ないというのも、なんだかいいような悪いような。
秋の紅葉のみならず、老いがれの自然をみる情緒というものも、ぜひとも大切にしてもらいたいものだ。それこそ自然の姿に他ならない。

昔の日本画なんかには結構枯れ朽ちる植物を描いたものがあったりする。僕もミズカンナのスケッチをしてみた。職上柄からいえば、風景(空間)と描く植物が何か分かるように描かなければいけないような気もするのだが、技量がないので、風景として描いて出来上がりにした。水面に浮かぶミズカンナ、合間から青い葉が見えかくれする。手前はたぶんキショウブだと思う。奥の岸には若葉をたわわにしたイロハモジの枝がずいぶんと降り下がり、たなびいていた。(2005.05.01記す)

ゲンゲ

この時期田植え前の農地でみかける中国原産のマメ科の植物です。
花はミツバチの蜜源でもあるが、昔ほど田圃を赤紫に染める姿をみることはなくなったそうだ。僕の思い出は、ゲンゲよりもシロツメクサやムラサキツメクサが咲き乱れる風景の方が馴染みがある。小学校の時にバッタなどを田植え前の水田や草原の中でとって遊んだりした思い出がある。

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ゲンゲは中国原産で、水田の緑肥として栽培されていたが、化学肥料が普及してその姿を見かけなくなった。ゲンゲをはじめとするマメ科の植物は空中窒素を固定する。耕転して土中にすき込むことで、水田に窒素養分を貯え、稲の栽培に役立つのである。窒素肥料分は稲に吸収され窒素化合物として、つまりタンバク質として稲の全草の構成要素となる。高度成長期を通じて化学肥料が普及し、近代農業は窒素養分もこうした化学肥料で賄うようになった。窒素養分は、重要な要素ではあるが、窒素過多となると、タンバク質分の多い米となり、栄養化は高くなるものの、食味のあまり良くない米となってしまう。一般にタンバク質分が少ない米が美味いということらしい。

葉はマメ科の植物によく見られる楕円形の小葉が7~11枚程度からなる奇数羽状複葉。

山菜採りの事故・ギボウシとバイケイソウ

ニュース(2005年5月6日)で山菜採りの事故のニュースがあった。
山へ山菜採りに出かけ、帰りに焼肉屋へ立ち寄り、そこで採ってきたオオバギボウシを焼いて食べて中毒になり亡くなったそうだ。どうやらそれはオオバギボウシではなかったらしい。

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確かにオオバギボウシとバイケイソウの葉の感じはよく似ている。特に今頃の若葉の頃は特に見分けるのが難しいかもしれない。

写真左はオオバギボウシで、写真右はバイケイソウだ。ちがいはギボウシ類には葉柄があり、バイケイソウ類には柄がない。だから若葉の頃は葉柄が未熟で見分けにくいわけだが、成長してくるとオオバギボウシやギボウシは葉柄が伸びでくるのですぐにそれとわかる。

どちらも湿気のある冷涼な場所に生えていて生息地も似ているので、間違えやすいということもあるようだが、バイケイソウの方がやや高所で冷涼なところで見かけるように思う。(似たものでコバイケイソウという毒草もあるがこれは完全に高所に分布するらしい。それを僕は見たことがない。)それに比べてオオバギボウシはあまり日当たりの良過ぎない湿りけのある土地であれば然程冷々としたところでなくてもまぁみかける。それにギボウシの仲間は品種改良されて庭園芸としても利用されているので、バイケイソウより分布域には幅があると思う。だから冷涼な湿度のある山谷が生活圏の近くにある中部地方や東北方面では分布域が近しいので見誤ってしまう事故もあるかとも思うが、西の地方ではあまりそういう間違いはなさそうな気がする。

それにしても焼肉屋で焼いて食べたというが、若葉を焼いて食べたのだろうか?若葉も美味しいらしいが、食べたことはない。葉柄があるかないかで、毒か毒でないかわかるのだから、とにかく葉柄のないものは食べないのが安全だ。

山菜採りは楽しいが、食用できるものと毒になるもので、見た目が似ている種類があったりするので気をつけなければいけない。そして大体山菜採りは毎年あそこにはあれがあって、こっちにはこれがあってと当たりをつけていくように、つまり知った山で採るようにしたほうがよい。

それでは食べる方のオオバギボウシというと・・・・・。葉柄の部分を湯がいて水にさらし、マヨネーズをつけて食べる。少しぬめりがあって美味しい。僕はこれを岐阜の古川という町に暮らす塚本さんのお宅ではじめていただいた。癖のない甘みとぬめりと歯触りでとても美味しくいただいた。翌日には、チシマザサを採りに行きその場で新鮮なものを食べさせてもらい、とても楽しい山菜の時を過ごさせていただいたのである。

採り過ぎれば環境破壊になる、知らなければ事故になる。山のことを大切にする、大切にするためには山のことを理解する。そうすれば自ずと美味しいものを山が教えてくれるのだと思って心しよう。

写真左:オオバギボウシ(2002年高尾にて) 写真右:バイケイソウ(2003年丹沢にて)

2005.05.07記す

2010年9月24日金曜日

再録 / どんど焼き(2005.12.26の記事)

環境やランドスケープといった仕事をやり始めて、はじめてのどんど焼きをみる機会を得たのが、7年前。そんなに時間も経っていないような、随分経ったような。

そのとき以来、各地でどんど焼き(左義長)がおこなわれているので、気にしてはみるもののなかなか出掛ける機会には恵まれない。最近、仕事のために通った東京都の日の出町でも「どんど焼き」が年行事でおこなわれている。こちらの「どんど焼き」は、川原(平井川)でお飾りを積上げてわりと盛大のようだ。盛大と言っても、大磯の浜辺でやるものと比べるとそうでもない、という気もしないでもないが、本来、小正月はしみじみと正月(ハレ)の行事の終わりを告げるものだから、あまり盛大で、観光的になるのも違うような気がするので、程よい程度にしておいて欲しい。ましてや、花火とか打ち上げようものなら、それは違うだろ!と突っ込みたくなる。

日の出町の場合も、しみじみとあり続けて欲しいものだが、観光的に考えたい人々もいるかもしれない。「どんど焼き」の意味由来をよく考えて大人達は行事に勤しんで欲しいと思う。

それから、社会を生態学的に捉えてみると、このような行事の伝統性が守るべき地域のコミュニティや活性の持続性、継承すべき持続的文化性ということの指標になるとしたら、川原のどんど焼きは、町の文化として一つ重要なものだが、これは日の出町の生活史の一部でしかない。川原での「どんど焼き」は低地の暮らしの風物、生活史であって、同じ日の出町であっても山間部の生活史ではない。なんとなく、こちらをちょっと見捨て気味なような、そんなことが気になる。

山間部では、古くは「お炊き上げ」といって、各家の屋外に屋敷神(特にこの地域では稲荷が多い)があって、そこに年末年始にかけてのお飾りを集めて焼くそうだが、今でも続けている家が結構ある。低地部のように大きな川原がなく、集落の住戸の数も少ないため、皆でまとめて焼くという形式にはならなかったということのようだ。

環境条件によって生活史の風景も異なるということだ。ただ、全体的に行事としてのかたちは、各家のことでもあり随分と崩れているのではないかと推察される。出来れば、この日の山間の各家々で細々と煙が上がるという風景も残していって欲しいものであり、町全体でもこちらの方にも、目を向けて欲しい気がする。これが環境由来の多様性の保全であり、これからの山間部の生活、コミュニティをどう考えるか、捉えるか、ということにも繋がる、と言ったことになるのではないだろうか。山梨県で出会った「どんど焼き」の風情を思い出す度にそのようなことを感じている。(2010.09.24記す)

以下、再録記事。



【どんど焼き 2005.12.26記事】

一昨々年(2003年)のこと、年明け早々に地域の調査のために山梨へ出かけた。
都会ではその風習がほとんどすたれ、行事を見かけることもほとんどないが、まだ地方地域に出かけるとこの1月中旬から2月にかけて各地では小正月の行事が行われていたりする。小正月の由来には詳しくはないが、正月が「ハレ(非日常的な状態)」の行事だとすると小正月は「ケ(日常的な状態)」に生活をもどす、いわば「ハレ」送りの行事ともいえるのではないだろうか。その風情は日常に心とどめおく心持ちや思いを人々のなかに刻み込む行事のように思う。

そんなことを意識もせずに調査に出かけた。

しかしそこには・・・
調査した地域では小正月は道祖神のお祭りであり、どんど焼きの日でもあった。
静々とした美しい彩りの「オカザリ」があちらこちらで道祖神のあるところに立っていた。
意識していなかったことも手伝って、自分の日常からは失われたしみじみとした美しい里の風景に観いる。お祭りといっても、地域のお祭りで、べつに観光にのるようなものでもない、うつくしい日常の機微に心洗われる。





この日オカザリや様々な正月飾り、書き初めなどを地域の皆で焼くのである。そのたき火でお餅や団子、芋などを焼き、皆で食べる。オカザリの垂れ下がった竹の飾りは家の数だけあって、その部分は焼かずにクルクルと丸めて束にして、それぞれの家が持って帰る。それを屋根の上に放り投げ、家内安全のお守りにするのである。

寒空に けむりが舞い
たき火の暖かさを ほのかに感じながら
集まった人々は 大声で騒ぐでもなく
おくり火に 白い息を吐きながら 餅や芋を焼いてたべる
その山間の澄んだ空気のなかで ただただ日常への思いと機微が宙をまう

そうして日常の質がつくられていくのではないだろうか と思えるほど
そこには 限りなく澄んだ空気が漂っているようだった

クリスマスだの、お正月だの、ハレの行事の後には本来ハレ送りが必要な気がしてしまう。ハレの行事が365日日常茶飯事となった都会ではハレ送りなど意味がなくなってしまったのかもしれない。しかしどんなにハレの行事が賑やかになり、その質があがろうとも、それが本当に日常の質をたかめるもの足り得ないようにおもう。やはり、こうした静々とした送りの行事にこそ人間の日常の質がつくられていくのではないだろうか。

徳島で出会った人々 / 再録(2004〜2005年)









2003年頃から2006年頃にかけて、徳島県の農家の方を中心に、様々な方のところへお邪魔した。その時の記録の一部を記事にしていた。もっとも印象が強いのは何と言っても一宇村の臼井の爺さんであることは間違いない。記事にはまだ出来ていないことが沢山あるが、簡単な紹介をすることで一応の記録とした。(2010.08.24記す)

以下、徳島で出会った人々の記事。




【徳島県一宇村 臼井さん 2005.03.13の記事】

自らを平家の末裔という。平家の落人文化の色濃い祖谷に近い徳島県一宇村。その深山標高1100m付近剣山系の山間にひとり暮らす臼木翁。

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ここでつくられるジャガイモは、表面のうす赤く染まったものが採れ、アカイモと呼ばれる。同じ種芋を使っても低地部ではアカイモにならない。標高や気候と土の条件によって形作られる農作物、ほとんど農薬を使わずジャガイモが育つ。そして寒さに耐えて味の濃く甘みのあるイモができる。
車ではたどり着く事のできないその農地は、自然の山並に囲まれた、緩斜面につくられた自然の畑である。

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翁の写真は友人のアイスランド人映画監督ギスリ・スナイル・エリンソンと一宇村を訪れた時に彼が撮影したもの。





【徳島県脇町 竹中さん 2005.03.13の記事】

久しく1月の終わりに徳島へ出かけた折、藤原さんの農地を見せてもらいにいった。
藤原さんの奥さんはいつも朝市にたくさんの野菜を並べてくれている。
藤原さんはニンジンを中心に育てている専業農家である。それ以外に、奥さんがご主人の仕事の手伝いの合間に野菜づくりをやっている。今回はその奥さんが手掛ける畑を拝見させてもらった。



【徳島県脇町 竹中さん 2004.12.07の記事】

10月は脇町の竹中さんの農地を観にいった。人から借りている水田も含めて六町(だいたい6ha、つまり6万平米)ほどの水田とそれ以外に畑をいろいろやっている。人から借り受けた所もあれば地所もある。伺った時には白菜の苗が植わっていた。竹中さんがきれいにつくった白菜の苗床も見せてもらった。水田では、早稲であるキヌヒカリはすでに刈り取られていて、ヒノヒカリがこれから刈られようとしているところだった。米の世話は竹中さんのお父さんがされているそうだ。キヌヒカリもヒノヒカリもこの辺りではよく見かける品種だ。西の米は北の米と比べてあまり美味しくないと思われがちだが、それは幻想だと思う。
それに多くの場合、炊き方や水加減で、うまい米を不味くしてしまうことのほうが多いのではないだろうか。西の米も一度はみなさんご賞味あれ。

竹中さんのところには東京からきたお嫁さんがいて、二人で朝市に参加している。二人で精力的に新しい野菜や変わり種の栽培にも力を入れたいそうだ。僕が用意したハーブ苗も竹中さんのところで幾種類か育ててもらっているところだ。僕としては、溢れるバイタリティで減農薬や変わり種野菜だけでなく、どんどん自家採取や無農薬的な農法にも力を注いでもらいたいと思っている。なにしろ気持ちいい程にバイタリティを感じる。農作物を食べるということは、植物の生命力とそれを育てる農家のバイタリティをいただくということなのかもしれない。


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【徳島県板野町 黒川さん 2004.09.05の記事】

板野町でハーブ園を営む黒川さん。
「雑草が生え放題で・・・。」という黒川さんの農地は約20年ほど農薬を使っていないそうだ。牛の世話は旦那さんの担当で、ハーブ園の肥料は牛舎にいる牛の牛糞を堆肥にして必要に応じて施肥しているので、自分達も安心して食せるのだという。

大量に生産をしているわけではないが、是非多くの人たちにフレッシュハーブの良さを知ってもらいたいという。息子さんが料理人でハーブ料理の店を親子で立ち上げようと奮闘中だ。

ハーブ園には露地とハウス栽培をあわせて、ローズマリー、ラベンダー、レモンバーべナー、レモングラスをはじめ約50~60種類のハーブを育てている。

下の写真は露地に茂るミントで最初は畝をつくって栽培していたが、今では茂り放題になっているのだという。伺った
時に、久々にフレッシュミントを惜し気もなくふんだんに使ったミントティを頂いた。手作りのパンも一緒に頂きとても幸せな気分になった。






【徳島県市場町 古本さん 2004.09.05の記事】

古本さんは徳島県市場町で農業を営んでいる。
四国吉野川の北側で、古本さんの農地からもう少し北へ行くと香川県、四国霊場八十八ヶ所の八十八番目の札所・大窪寺がある。四国の山間としては傾斜も緩く開けた南東に面した阿讃山脈中腹の明るい場所が、彼の農地だ。

古本さんの農地は奇麗な石積みで区切られて優しい感じのする水田が広がっている。この石積みはほとんど古本さんが一人で築いたものだ。古本さんはコンクリートのものよりも補修が簡単で、お金もかからないという。ほとんど崩れることもないが、崩れても手作業で石を積み直した方が良いという。
「ユンボで補修しようとすると要らんところも掘ってしまう。」
だから、手作業のほうが良いのだ。



水田の上には杉林とクヌギ林があって、椎茸を栽培している。ふっくらとした大きな椎茸が自慢だ。

「他から材木を買ったほうが安上がりだが、せっかくここで育った木なのだから、ここで使ってやるのが一番いい。」
杉の木は家を建て直したり、補修したりする時に利用するのだという。古本さんは自分で家の建て前もやってしまう。多彩な農業技術者である。彼にとっては、米や野菜をつくるだけではない、生きて食べて暮らす生活全般を司るすべての知恵が農業なのだ。






【徳島県脇町 川下さん 2004.09.05の記事】










脇町の川下さんの住まいと農地は脇町に流れる大谷川の左岸段丘から川辺にかけてのゆるい斜面にある。

畑では川下さんとお義母さんとがそれぞれ好きなものをつくっている。田圃は85歳になるお父さんが元気に管理している。お父さんは農地全体の草刈りや田畑の縁の石積みをするのが日課になっているので、除草剤などはいらない。

「有り難いことに、お義父さんは草取りをするのが趣味みたいなもんじゃ。」という。確かに、無駄な草は摘み取られて、奇麗な田畑だ。

川下さんはちょっと変わったものをつくるのが好きで伺った時は、沖縄、東南アジアでよくつくられる四角豆(ウリズンまたはウィングドビーンズともいう)やムラサキヅルなどをつくっていた。果実畑もあり、キィウイ、モモ、イチジクの木などもあって川下さんの農地には多彩な農作物が広がっている。






【徳島県脇町 金垣さん 2004.09.05の記事】









徳島県脇町の金垣さんは農家ではないが、
天然酵母のパンを焼いて、朝市の集まりに参加してくれている。

その昔、脇町の始まりともいえる稲田氏の家臣たちや城の修繕をした大工たちが集住したといわれる大工町に暮らし、障害者施設の子達とパンをつくったり、売ったりして活発な活動を続けている。阪神大震災の時にはここで皆で、お握りをつくって被災地に送ったりしたそうだ。これと思ったら先ず行動するのが金垣さんのすばらしいところ。

金垣さんの天然酵母パンは密度感があってとても品のあるパンだと思う。


徳島でせっせと週に一回、天然酵母のパンを焼く 
金垣のオカンと久しぶりに電話で会話。 

個人の農家さんのハーブの栽培についてのはなしをする。 
今日は金曜日だから、金垣のオカンはパン生地をこしらえているところだった。 
手を休まさせてすいません。 

電話の後、来年の収穫に向けて誰にどんなものを 
作付けしてもらったらいいのか、いろいろ考えた。 
ぼくは、つくるひとの性格や表情が農作物に現れるものだと思っている。 

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だから、農作物とそれをつくる人の相性と言うものもあると思う。 
相性のよいものを、気持ち良く、愛情を持ってつくってもらいたい。 
つくりての気持ちも尊重しながら、どんなものを、 
どんなふうにつくったら良いか一緒に考えて、実行していきたいものである。 

夜になって、 
日経ビジネスにのっていた高遠さんの記事を読み直す。 
(高遠菜穂子「イラクのことを伝えると約束」日経ビジネス2004年6月7日号) 

政府関連機関、日本国民に対して、感謝と社会的重圧に対しての 
恐怖感などが述べられて、非常に気を使いながらのコメントだった。 

しかしながら、人質事件前後の経緯を非常に素直に書かれていて、 
周囲の対応についても、興味深い記述があった。 

例えば、解放された後、 
『大使館でイラク大使の大木(正充)さんが、「自衛隊が 
撤退なんかするわけないじゃん。出したばっかりで、 
体裁悪いし」とおっしゃったのも、すごくショックでした。』 
と書かれている。 

これはこれで、ふぅ~ん、と思っていたが、 
さらに 
☆シバレイのblog☆イラク取材日記の 
「絶対ワザとだろ!!(ちょっと書き加えました)」6月21日付け 
http://www.doblog.com/weblog/myblog/10644 

では、国の自衛隊の使い方の体の悪さを裏付けている。 
体面で命をさらすのも、命を奪われてからじゃないと、 
まともなことをやっているのかどうか、わからないのかな。 
NGOやNPOと政府はもっと国内でコラボレーションの仕方を話し合うべきだと思う。 
そして、個人的な活動を抑止するのではなく、盛り上げていく 
仕組みを考えた方が前向きだと思う。 

今の状態を仕方なしとするのは、近代国家に暮らす人間の質としては、 
レベルが低いと言わざるおえない。 
対話不全に陥っている社会や政府はあまりに奇妙。 

対話でそれぞれが気持ち良く仕事が出来ることと、 
対話もなく体裁で怠惰に命をさらすことのギャップは大きい。 
みなさん、どんな風に仕事してますか? 

※ ファルージャでの状況悪化を受けて、4月27日付けで、 
提言文を日本政府に対して提出したが、その後も予想通り、 
ファルージャはイラクの戦況の要となって、停戦合意、 
主権委譲の体裁とは別に、悪化の一途をたどっているようだ。 
僕は、活動家ではないので、これ以上の活動もしようもないのだが。 
↓「抜粋提言文」 







【徳島県脇町 佐藤さん 2004.07.06の記事】

徳島県脇町拝原の農家・佐藤光輝氏。
父の代から茄子の生産に取り組む。高度成長期の幼少のころ、父親は農薬からくる手足のしびれを感じた。必要以上の農薬を使用していた時代の話だ。

その後、父は農薬をなるべく使わない方法で農業に取り組んでいった。

そして息子である彼は今、父母と共に植付け後の施肥をせず、農薬を一切使わないで、茄子の生産を行っている。

植付け前の土づくりの配合飼料と、作付け後の一回消毒をおこなうだけの生産方法で美味しい茄子をつくり続けている。

また、農業後継者の会(緑友会)の会長として、朝市の運営や、様々な活動の世話役となっている。温厚な人柄は、これからの「農」のある優しく豊かな暮らしに欠かせない人物。


そして、夏の終わり、佐藤さんの水田を見に行く。

吉野川の河川敷だった低地に広がる一反ちょっとの水田。佐藤さんの家は元々脇町ではなかったので、農地はあちらこちらに点在している。そのひとつがここだ。

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台風を耐えて、実った稲ももうすぐ収穫だ。ふと、足下の用水路に目が止まった。水田のあるところでは何げない当たり前の風景だが、用水の引き込みを調整する石が置かれている。石は都会では、ただの石でしかない、しかし石の置かれる場所、使い方、人との関わりが多様なことが、漠然とであるが、とても重要なように思えた瞬間だった。

僕は、とても何げないその石たちに、ささやかな有り難みを感じた。


【朝市】
こうした方々とうだつの町並で、朝市を企画し、皆で話し合い実行することになった今(2010年現在)でも、続けているということだから、五年は続けたことになる。
始めた頃の僕の記事は以下の通り、

「徳島県吉野川中流域の脇町の道の駅「藍ランドうだつ」では、これまで不定期に行っていた朝市を土曜日、日曜日にもやりはじめました。

朝市の会合に参加してくれている、元気な地元の農家の主婦の方々。
その有志で土日も継続的に朝市をやりはじめた。ぼくがいったときは、ネギやレタス、ニンジン、それからヨモギ餅などを販売していた。季節柄、朝山取りしたイタドリ(ユタンポ)も並べられていた。イタドリは最近の都会では見ることも食べることもなくなった。四国では徳島の人より高知の人の方がよく食べるらしい。ほかにはハッサクが並べられていた。庭先で採れたものだから、農薬もかかっていない安心の柑橘類だ。とくにこのあたりのハッサク、今年は甘み酸味とも程よくかなり、かなり美味しい。ここでは大玉のハッサクが5~6個はいって、300円というお買得。レタスは鮮度の良いものを100円にて販売。

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ゴールデンウィークあたりに徳島においでの方は、午前9時~午後2時か3時ぐらいまでやっているので立ち寄ってみてください。徳島自動車道脇町インターから10分程度、うだつの町並みの藍蔵(道の駅「藍ランドうだつ」)の軒先でやっています。(2005.04.25記す)」

あれ以来、伺うことができていないが、好景気といかなくても、そこそこ盛り上がっていてくれるとよいのだけれど.....。

再録/御嶽山紅葉屋(2009.07.31の記事)


もう何度か、行ってみようと思っていたがどうも仕事が忙しくて、一年以上経ってしまった。出来れば秋に軽く登り蕎麦がきを食べさせてもらいたいと思っている。(10.09.23付け)

以下2009.07.31の記事

御嶽山山頂には御嶽神社がありその周辺には土産物屋、宿泊施設、民家等が建ち並ぶ言わば山岳都市である。御嶽信仰の歴史は古く多くの人々の信仰を集めている。

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御嶽神社周辺に今も暮らす人々の多くは、御師(オシ)と呼ばれ、参拝者の身の回りの世話をしたり信仰者へお札を配ったりすることに従事していた人々の末裔であると思われるが、それでも周囲の山村からの輿入れ等もあるだろうからその由来は様々だろう。とにかく、こういった山奥で暮らすようになった由縁という事には何となく興味がそそられ、色々と話を聞いてみたくなるものだが、神社参道筋にある紅葉屋の婆さん(お婆さんとか、年配のとか、彼女というよりも、あえて元気な婆さん、というのが合っていると思う)は元気で、こちらの興味より前に客相手に思いついた事を色々話しかけてくる。自分に興味があることが中心だから、話はセングリセングリ。婆さんの表情が豊かすぎて、一枚の写真では表現出来ず連写。蕎麦を自家で打つこの店の蕎麦がきは美味しかった。他にも、山菜盛り合わせ、刺身こんにゃく、など賞味ごちそうさま。 (2009.07.11)

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2010年9月22日水曜日

2004年のイラクの紛争に関して提言/再録

2004年4月、私はイラクの紛争に関して提言書を日本政府関係機関に送った。国際政治と言う我々には分かりにくいこともあるが、人を含む環境の悪化に理を示しておきたいと考えたわけだ。幸いに36名の様々な方からの賛同も得ることができ、感謝の意も含め最もわたしが大切にしたいと考える文書の部分とこれに賛同頂いた方のお名前をここに挙げておきたい。


ーー記ーー
 「私たちは日常的に抱えている様々な出来事の延長線上で解決しなければならない問題として、イラクに対する日本の態度を今一度考え直す必要があると感じています。

日本人にとっも、イラク人にとっても、自分、家族や友人、住み良い暮らしのため、今ある暮らしを築き上げてきた歴史や文化、そして望むべき未来のための行動として、私たちのイラクへの「人道復興支援」もあるはずです。

私たちは、豊かな地域環境をお互いに享受しあい、地球環境を共に分かち合いながら平穏な生活を営んでいくための一環として、つまりは人の視点と(誰でも同じように平和であってよいという)生活の視点からこのことを確認し、確実にしていきたいのであります。」

4月27日付けで、
書簡郵送で、
内閣官房宛 内閣総理大臣 小泉純一郎殿
外務省宛 外務大臣 川口順子殿
環境省宛 環境大臣 小池百合子殿

電子メールにて
防衛庁宛 防衛庁長官 石破茂殿
国土交通省宛 国土交通大臣 石原伸晃殿

※なお、この文書は、環境デザイナーの廣瀬氏に構成をおこなってもらった。
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<賛同者(敬称略)>
青柳裕美(東京農工大学大学院農学教育部共生持続社会学専攻所属/東京)
上川大助(千葉)
上川真弓(千葉)
植本俊介(建築家/植本計画デザイン代表/東京)
岡田充弘(海癒/高知)
河野太志(会社員/東京)
加藤純(建築家/一級建築士事務所 作人/大阪)
川人美洋子(徳島)
岸田明義(東京)
岸田章子(東京)
木場エド(DJ/千葉)
栗田融(空間デザイナー/メルティングポットデザインショップ代表/東京)
斉藤さゆり(衣裳作家・建築家/東京)
斉藤浩彦(グラフィックデザイナー/竹内デザイン/東京)
佐藤光輝(農業/徳島)
酢谷奈緒子(森アーツセンター/東京)
十代田泰子(青年海外協力隊OV・建築家/東京)
田賀陽介(環境デザイナー/田賀デザイン事務所代表/東京)
高橋美展(青年海外協力隊OG/兵庫)
高山和孝(千葉)
竹内美穂(建築家/一級建築士事務所 作人/大阪)
立花かつこ(パッケージデザイナー/デザインオフィス・アーツ/徳島)
田中研一(建築設計/山形)
仁田あかね(学生/お茶の水女子大学大学院/東京)
仁田さやか(会社員/東京)
春田ゆかり(グラフィックデザイナー/春田デザイン室代表/東京)
平林英二(フリーランス/東京)
廣瀬俊介(環境デザイナー/東北芸術工科大学環境デザイン学科助教授/山形)
福永麻里(東京)
藤井哲次郎(建設コンサルタント/ジオグリーンテック/東京)
藤田茂樹(農業/徳島)
二羽高次(ミュージシャン/BREATH MARK/東京)
前田博史(会社員/大阪)
松原美恵(建築家/Studio In's Factory/大阪)
両角美由紀(映像プロデューサー/アンスールピクチャーズ代表/東京)
横田茂永(東京)
以上36名

spcial thanks
ギスリ・スナイル・エリンソン(映画監督・アイスランド)

 取りまとめ役
田賀陽介
以上。

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 結局は、十二分に日本は参加してしまった。
 多くの人々が、日本が太平洋戦争後にはじめて参加したこの戦争について、参戦したとはおもっていないだろうが、「参戦」である事実には間違いがない。
 しかし、私は署名してくれた方々とともに、政治性等とは切り離し、生きる意志の方向性を確認することが出来たことを一つの希望ととらえ、このことをよく肝に銘じておきたいと思う。
 この時の様々な人の反応と911の時の人々の反応は、私の人生の中で非常に印象深く残ることとなったことである。
2010.09.22記、田賀

2010年6月18日金曜日

須川におもう.........。

瀬君に呼ばれて、彼が教えている山形の学生の課題の様子を検分させてもらった。夕方東京へ帰る電車の時刻まで少し間があったので、廣瀬君が紹介してくれた山形市内を流れる須川の常磐橋付近の河畔に赴いた。正確には、彼が段取りをしてくれてその川を見聞する事ができたのだが、事の次第はともかく、普通に観れば町中の平野部に流れる普通の川を紹介されたのであった。
普通の川だが、山形周辺ではとても彼が好きな景色だという。そうした須川の感想以外にも、幾つかの説明をメールで受けていたが(失礼な話だが)いい加減に読み流して現地へ赴いた。そして、川のほとりを少し歩き、まず最初にシャッターを切った写真が下の写真である。


東京に戻って、彼からもらったメールを読み直してみると、
「河床勾配が緩く堤内の宅地地盤との高低差も僅かで、付近の住民がニセアカシアを適当に伐り(残し)、草を刈り、また増水時に出た礫を低水護岸に一部用いているなど、人間が自然に対して控えめに手を入れた感じが..............。」
と書かれている。
なるほど、現地に立ち説明を意識せずに、よい眺めは何処だろうと撮影した1枚目の写真が廣瀬君が語っている景色を端的にあらわしている。ただ奇麗な川というのではなく、やはり町を流れる川なのだから、人の生活との関わりがある川の景色が、とてもそこの生活や風土性を感じさせてくれて、シャッターを切りたくさせたのであろう。

川の水面の向こうにみえる住宅、当然それらの家々からも川の水面がよく見えることだろう。これがぶっきらぼうに配慮なく河川整備されていたとしたら、重厚な堤防に隠れて、川と周囲の生活は確実に切り離されていただろう。現代生活の中ではさほど不便さなどは感じないかもしれない。川面が堤防で見えなくなってしまっていたならば、生活と関わりのある川にはあまり思えず、堤防の上に立った時に多少の開放感を与えてくれる程度の表層的で一時的な景観にすぎないものになってしまっていただろう。しかし、今、この配慮された川面の見える川の護岸は周囲の生活者にとってずいぶんと生活の豊かさを提供してくれているはずであり、地域の誰にとっても、かけがえの無い地域への深い絆を想起する景観となっていく。

「増水時に出た礫を低水護岸に一部用いて....云々」というのは、コンクリート護岸でガチガチに固めずに下の写真のように敷設して、謙虚な施工例の好例であることを述べている。
確かに、仮にこれがコンクリートで固められていたならば、景色どころか堤防で見えない方が良いぐらいなものだったかもしれず、川原へ降りてみようとは思わなかっただろう(そうだとすると、川に背を向けて暮らすことを是としてしまえば、川をコンクリートで固めて堤を高くするのは、逆に理にかなっているということになる。今の都市生活では水路や小河川を安直に暗渠化してしまうことからも明らかなように、水辺に背を向けることがトレンドなのかもしれない。同時に私の事務所の近所のカフェは飯田橋堀を前に水辺のカフェをやって大いに繁盛しているのだが......。)
とりとめもない普通の景色のようだが、これは周辺の住民の生活に配慮できたすばらし土木事業の一つでなのである。河川敷には在来種ではなく、上流どこかでおこなわれた法面緑化によるニセアカシアの逸出によって河畔林が形成されている。ニセアカシアというところが多少悔やまれるところだが、廣瀬君の説明にあるように、これも全く伐採してしまうということではなく状況に応じた施策としてその柔軟さを非常に評価することができる。
前提として、河川幅が十分にとれているということがこうした低い堤防や護岸の計画に自由度を与え、施策を可能にしている訳だが、もっと都市化した行政区では、これは特殊なものでしかないし、現実的には難しい施策だと考えるかもしれない。しかしながら、土地条件や土地利用の特性をもっと配慮して氾濫原のあり方を見直し、徐々にある一定の氾濫原エリアでの資本集中と固定を撤退させるということも危機管理と地域の安定経済の骨格となる土地利用構造の形成でもあるはずである。地域資本の安定化という事を根本から考えていくべきではないだろうか(それは国ではなく地域自身が自らのためにやらなければならない。所得税が一旦国のがま口に入ってしまう、といった金(財源)を運用する権利との乖離があったとしても、自分たちが獲得すべき思考を捨ててはならない、と思う。)



そして、我々は何よりも人間の生きる知恵の働いた自然と調和した美しい景観、精神と肉体の健全性を育む環境を生活の中に獲得出来ることになるのである。調和的な環境は、コンクリートで固めることや土地の高度利用と称して建築物を高層化することではないことは誰もが感じているはずだろう。(文責:田賀/2009年8月24日執筆、2010年6月18日加筆修正)

2010年5月23日日曜日

業務事例10:DNP箱根創発の杜 緑地計画

大日本印刷株式会社研修施設におけるランドスケープ計画

当該計画地は、箱根内輪山中腹に位置する国立公園内にあり、元々放置生産林であった区域を研修施設として計画されたものである。開発にあたって、周囲の自然環境に配慮し、開発前の放置生産林から地域的自然林への転換を図り、開発により自然度を低減させるのでなく、積極的に自然度を回復し、企業の環境への取組を具現化出来るような計画とした。


箱根町は外輪山に囲まれ、雲溜まりとなって年間を通して雨量が多く多湿である。霧に覆われることも多く、日照時間が少ない。

芦ノ湖(ギスリ・エリンソン撮影)

計画地周辺の山腹(ギスリ・エリンソン撮影)


地域の環境を考慮し、計画地内の物質のみで緑地の修景をおこない、自然回復と研修施設利用の良好な外部環境を形成する計画を行っている。







自然修景による雨水系(ギスリ・エリンソン撮影)

計画地内で保持された樹木および草本類を再配置した修景
(ギスリ・エリンソン撮影)


計画地内で光環境を整えるために間伐された材を利用して管理路を修景
(ギスリ・エリンソン撮影)


地被類回復期間の土壌流亡を防ぐためのソダ工と石積工


施設導入部の煉瓦舗装は微妙な地形勾配を利用した煉瓦パターンとして排水計画と意匠性
を融合した計画とした。建築施設設計:デネフェス、施工:清水建設、東京ブリック社。
(ギスリ・エリンソン撮影)



雪景色のソダ柵工



雪景色の煉瓦舗装の遊歩路(照明計画:ぼんぼり光環境計画)

また、機能的な動線に対しては煉瓦舗装とし周囲の景観との視覚的な調和も試み、環境へのインパクトの低減を図りながら、自然度を極力維持出来る構造の修景計画を行っている。
(追記:この計画は昨年2010年にAACA芦原義信賞を頂きました。)

2010年5月16日日曜日

ヤマカンピョウ(ヤマクラゲ)


先日、九州産業大学で教えている栗田氏が、長野出張のみやげをくれた。これまでいろいろお土産を持ってきてくれてありがたい。先月は、壇太郎氏からもらったと、イチゴを山ほど持ってきてくれた。これ大振りで小ぶりの美味しいものと比べると、やはりちょっと味が落ちるような気もしたが、一般的にみたらすこぶる美味しかった。逆に形がしっかりしてるから、砂糖控えめで十分形が残るように煮て冷やして食べたら最高。美味しい食べ方考えられるのがいいね。あとはクレープ、ムースなどにして美味しく食べさせてもらった。イチゴのリゾットもしたかったが考えてるうちに食べちまいました。壇さんは、昔麹町でルッフィーノって店を手伝ってた時に、一度、奥さんと食べにきてくれたことがあったな、栗田さん、壇さんによろしくお伝え下さい。

さて、それで今回、栗田氏が持ってきてくれたお土産の中でもっとも美味しい土産に類するものだった。それがヤマカンピョウ。

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これです。もとは何かと言うと、オオバギボウシ。僕がこのオオバギボウシを食べたのは、飛騨古川で民家に暮らす、塚本夫妻のお宅にお邪魔した時だけれど、さっと湯がいて食べる茎の歯触りが美味しかった。その後、都会暮しでは、なかなかオオバギボウシを食べる機会に恵まれないが、これが乾物になっているとは知らなかった。通称「山くらげ」とも呼ばれるそうだ。乾物だけれど、この青々しい感じがとても清々しい印象をあたえる。水戻しも2時間ぐらいで戻るので、使い勝手もいい食材だ。

早速調理してみたが、今回はとりあえずきんぴら。

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醤油と胡麻、唐辛子、そしてごま油がなかったので、ピーナッツのペーストをちょっと足して炒めてみましたが、旨い!白いご飯、酒のつまみに最高です。食べたときの歯触りがパリパリと、牛蒡のきんぴらとはひと味違った美味しさです。土産でくれたものは、有機栽培されたもので、乾物としての鮮度感もあり、もの自体もなかなかいいものだったんじゃないかな。
長野に行く機会があったら、僕も買ってこよう。栗田さんありがとうご馳走さま。(2006.4.20記述)