2011年1月16日日曜日

チョムスキー その1

「わたしは人々を説得することには興味がない。私がやりたいのは、人々が自分自身を説得するのに力を貸すことだ。」
(N.チョムスキー、D.バーサミアン著「グローバリズムは世界を破壊する」の序文からチョムスキーの言葉/p.7/明石書店)

「真実を語り、嘘を暴くのは知識人の使命である。」
(N.チョムスキー、D.バーサミアン著「グローバリズムは世界を破壊する」の序文からチョムスキーの言葉/p.8/明石書店)


自分が知識者であるとか、人に何かを啓蒙するとかということではなく、例えば、自分が何をどういった面持ちで、どう言葉を定着するべきか、対話すべきか、の示唆がある。

2011年1月15日土曜日

思索01

丸山眞男が著書『日本の思想』のまえがき「日本史思想史の包括的な研究がなぜ貧弱なのか」という項において、

<私たちの多くがたとえばフリートリヒ・ヘールの『ヨーロッパ精神史』とかチャールス・ビアードの『アメリカ精神の歴史』という表題に、極普通な学問的関心で接しうるのに対し、「日本精神の歴史」という表現には何かおさまりが悪いというか、尋常ではないものを感ずるのは彼我何というおおきなちがいであろう。こういう感じをたんに戦時の風潮への反動とみて、「あつものに懲りてなますを吹く」私達の過敏症のせいにするのは、いまだ問題の核心に触れたものではない。日本思想論や日本精神論が江戸時代の国学から今日までのあらゆるヴァリエーションで現れたにもかかわらず、日本思想史の包括的な研究が日本史いな日本文化史の研究にくらべてさえ、いちじるしく貧弱であるという、まさにそのことに日本の「思想」が歴史的に占めて来た地位とあり方が象徴されているように思われる。(岩波新書 p.3)>

と述べている。この著書では丸山眞男は日本の思想の科学的な分析の試みを一般向けにあらわしているのだが、著書の中身については、ひとまず置いておいて私の普段の生活の中で直感的に上記の文章の感覚は理解できる。私の日常の、多くの周辺の人々との対話の中で、対面する人々各々の中にあるであろう「思想」または「思想的傾向」について語り合う事はなかなか難しいし、ほぼ不可能である事が多い。それは何故か?という疑問と大いに符合する。

私は、直感的に「日本人の精神」というものが、これのみを取り出して語るには引き裂き難い地域の土地風土、ないし日本の風土気候空間が作用していて、日本人の精神を「日本の空間」、「地域の空間」と引き離して単離化してみてみようとしたときに、その精神が変質してしまうという土着的な精神性の特質を内在しているために、各々の「思想」および「思想的傾向」を、変質させる事なく相手に伝えることが難しいか、伝える技術を持ち得ず日常的に語り合う事が出来ないのではないか、と考えるのである。

現代の都市生活(近代文明生活)においては、このような思想信条といったことに捕われず、豊かで幸せな生活をおくれるかのごとく、多くの日本人が振る舞っているように見える。そして外国(特に、というかほぼアメリカ)の押し付けてくる文明や政治的意図に無関心かつ容易に受け入れてしまう。

つまり思想信条の欠落によって、ボーダレスな状況なのだが、我々は「土地性、風土性」と言ったものに捕われずに(切り離して)はたして生きていけるのだろうか?多分そう聞かれれば、多くの人は地域は大事、風土、歴史は大事だと言うだろうし、漠然とは切り離せないだろうとも思うだろう。

また、都市生活(近代文明生活)とは方法の問題であって、必ずしも人間の生き方を問題にしていないと私は考える。しかしながら、都市生活(近代文明生活)というなかにのみ生き方を見いだそうとする人は多い(それは思想信条の欠落に関係すると思われる)。

私は「生活の方法」と「生活の空間」、その実体的な組合せから、ある種の日本人の拠り所となる「日本の精神(本質的な価値観の認識)」、「地域の精神性」といったものを見つけ出し、多くの人と理解しあえることが出来るのであろうか。模索してみたい。

(覚え書き、推敲ナシ、110115)