2011年6月6日月曜日

被災地支援01/ようやく現地での活動が....。

地域の細かな状況や現時点では放っておかれるような自然、風土環境について直接に触れながら、被災地の復旧復興の支援をおこない、地域の再生の礎となる資料を作成したいと考え、東北芸術工科大学の学生に声を掛けて「東日本復旧復興計画支援チーム」なるものを立ち上げた。構想は3月11日の震災から時を待たずして考えはじめたが、時間も金も人もいないと言った状況からどうすればいいのだ?と全く見当がつかなかった。

 とにかく自分が動かなければ、何も始められない。そういう事だと考えた。

 宮城県亘理郡の被災地。自衛隊隊員が実に良く働いてくれている(11.04.03)

 宮城県亘理郡常磐線浜吉田駅付近(11.04.03)

支援に先立って、四月初旬から直接的な支援をおこなえる場所はないかと福島県、宮城県と渡り廻っていた。仕事関連の知人等を介して出来る限り現地、現地周辺を動きまわった。

しかしながら(多少の直接的な活動もしながら)、実際の自分の支援の考えや行動が役に立つのか立たないのか分からないまま、現地をうろつくのは実に精神的に痛いものがあった。外から見れば、物見遊山にみられかねないようにも思えたし、かといって初動の段階で効果的な支援が出来る程の地理感や人間関係があるわけではなかった。

特に地理環境をある程度把握しながら廻らねば、長い期間での支援や、調査には耐えられない。

避難所やボランティアセンターでは様々な団体が活動をしていたので、こうしたボランティアに志願して活動するという事も足りない手を足らす、という意味では重要だ。まだまだこうした活動は必要だし続く事だろう。そして、急ぎ生活がなるべく滞る事無いように再生の道筋を立てて行かなければならない。

しかし、これまで長い期間を経て出来上がってきた町の歴史、風土、自然環境との関係は、こうした復興を急ぐ時に忘れられがちである。現地でのリサーチが欠かせないし、そのリサーチはただ生活の便という事にとどまらない。だから、あえてこれまで私自身が、歴史風土、自然と地域社会の関係を近代的な利便性も鑑みながらバランスよい環境として整えていく、そんな仕事をしてきたはずだから、この経験を生かした活動をしていきたいと考えた。しかし、何かの専門家である前に、人としての行動、感情を大事にしたい。そして、それこそが地域の暮らしに最も必要とされる人との関係だと思う。かといって、感情で物事を運ぶのではなく、ひとつひとつの人の気持ちを言葉やもの、絵に技術として定着させるということが後々に、非常に重要なものとなってくるのである。

が、なかなか直接的な支援を継続的にさせてもらえそうなところが見当たらない。それに通常のボランティア関連の団体や役所の担当係員からすれば、今のところそんなことに気を遣って等想いもよらないものだから、断られまくっていた。それが私の当初の支援初動の実体だった。

活動を始めた石巻市雄勝町の龍澤寺

被災地まで出掛けて支援を断られると、こんな状況でも全く自分が必要とされないのかと、実に心が折れる。極端に言えば『二度と来るか!』と思えるような対応もある。それは決して被災地被災者全てに対してではなく、現地窓口となっている担当者の質に対して、無性に腹立たしく思えたりしているのだが、それはそれで現地の人の気持ちが一番大事だと思えばこちらが腹を立てるのもお門違いのような気もして、気持ちを抑えた。

普段対応の悪い役人は、非常時も同様に対応が悪かったりする。当人も被災していながら、仕事をこなしていると言えば、聞こえは良いが、そう思えない事もしばしば後から被災者の方々に聞いてみるとあったようである。担当者やリーダーの立場から言えばそれはそれで色々あるだろう。いずれにしてもマスコミが伝えるような奇麗事ばかりではなく、色々な感情が渦巻くのも事実といえる。

そんなことだから、避難所や被災地の其処此所を廻り、ようやくたどり着いた雄勝町の龍澤寺の住職に

「出来れば直接的な支援をさせて欲しいのですが....。」と言うと、

「ああ、構いませんよ、ありがたい事だ.....。」と返事が返って来た。

そう答えて頂いた瞬間に、神か仏に救われたような気分になって、ほっとした。

お寺さんなので事実、仏に救われたのかもしれないのだが、支援をしようと思って、被災地を巡り、こちらが救われた気持ちになるという感覚は、現地に支援に来た人間でなければなかなか分かり難い感覚だろうとつくづく思う。

なぜなら住職の言葉を聞くまで、美しい御伽話しとしてはそう言うこともあるだろうと思っていたぐらいで、私自身そんな風に感じるなどとは思いもしなかった実感だったからである。