2014年9月28日日曜日

2014年度 奥会津銀山街道美女峠道普請作業(福島県大沼郡三島町間方付近、2014.09.09)

奥会津銀山街道は会津若松市内から南会津只見町小林に続く72キロメートルに及ぶ道です。近世から明治にかけては、柳津町にある軽井沢銀山を中心に往来があり、また奥会津地方を会津若松へ最短で結ぶ道として活用されていた。

明治29年(1896年)に銀山は閉山するとともに往来は衰微したが、それでも山間の暮らしの重要な道であった。

間方地区から美女峠へ向かう道
(銀山街道・福島県大沼郡三島町間方)


太平洋戦争後、戦後の只見川流域の電源開発に関連して只見川沿いの道路が整備され山間の道は廃れていったのであった。
今にして考えれば、もし山間の往来が続き、道が近代化されていれば生活の利便性は高まったのもの、今残されている地域の自然とその関わりは薄れたであろうし、景観の豊かさは失われていただろう。かといって社会全体の過疎化は道路の利便性だけでは食い止められなかったのではないだろうか。

道普請に集まった人々
地域の人々と県職員、東北芸術工科大学田賀研究室有志学生の面々
そして、今回の美女峠の道普請には福島県に震災以降応援で配属さ
れている東京、島根、岐阜、沖縄等の県庁職員が参加した。

今、山間の暮らしは住みづらく不便なもののように思える。しかし、何よりも残された山間の原資は、都市生活とは替えがたい価値がある事も事実である。これまでの高度成長的な価値観から離れて、山間の暮らしを新たな価値観で見つめ直し、伝統的な自然との調和的な暮らしに学び、現代の都市的な暮らしの快適さを節度をもって取り入れながら、未来へ繋がる新たな自然との調和的な地域生活を形成していくことが求められている。

目の前の小さな自然に目を凝らし、自分の暮らしとそれがどう関わり合っているのだろうかと、想像を膨らまし、それをゆくりと丹念に写し取り描き出してみる事である。表現する事は芸術家やデザイナーの特権ではない。生活者それぞれがもっている生きる礎となる不可欠な行動原理なのだ。

今回はぬかるんだ所で山からの水が集まってくる場所を中心に
3カ所に山側に土側溝を形成し、それぞれに横断側溝を設置した。


私的に言えば個々の人間の「生きる」は、「生産」という言葉に置き換えられる。厳密に言えば「生産と消費の連続性」でなのだが、
振り返って、一般に言われる「生産」とはどういうことなのだろうか。個々の暮らしの質に関わる人間の尺度(ヒューマンスケール)の生産を、現代人はどれだけ行なっているだろうか。

そう言う意味で今、その人の自分の目の前にある暮らしの質に関わる「生産」と言うものは、農家や職人と呼ばれる人々の手仕事の手の内に残されているものの、農家や職人の存在は今や現代日本において斜陽な存在となってしまっている。
苦しくとも生きる実感を与えてくれる暮らしの「生産」は、その苦しさから逃れたいという気持ちを利用され、大量生産のなかでの「労働」というものに置き換えられている。そして、多くの現代人は「生産」という権利を失い、給料をもらい、大量生産大量消費の社会性のなかで「消費」のために生かされる存在になり、一人一人の暮らしの質はそのなかで打ち捨てられていった。

昼食は地元の食材を使った弁当が用意された。


そして今や、拡大再生産の原理に支えられた大量生産の時代は終焉を迎えつつある。
これから我々は、量産の時代から離れて、もう一度適正な規模の人の暮らしをつくっていく必要がある。その知恵は伝統的な地域の暮らしのなかに、そして地域周辺の自然のなかに眠っている。

我々はそれを掘り起こす作業から丹念にはじめなければならない。丹念に観察し、考察し、少しずつその暮らしのあり方を改善していく。それが我々が我々本来の人間の適正な尺度の暮らしを獲得するための最短の道のりなのだとおもう。

横断側溝の形成。横断部分を掘り、水の経路を確保する。水経路の脇を県産材の
丸太で土留めして、現場発生した土を入れた土嚢を敷き詰めて床固めする。
水経路の土嚢袋は自然にかえる麻などの自然素材のものがベストだが、今回は一
的に工事で利用されている土嚢袋を使用した。また、本来は砕石敷にして水路
の床固めを行なうのが標準的な工法としているが、車の入れない場所では現場の
土を使って整備をおこなう。運搬労力を考えれば、資材は現地調達が原則的に効
率がよく、このような排水施設を設置する事よりも、管理の仕組みをしっかりと
もち、継続的に現場での維持管理が出来るようにしていく事がもっとも望ましい
いずれ、管理を続けていくうちに改良されていくことでしょう。


この銀山街道に沿って多くの山間の小さな集落の存在がある。そうした集落の存在は今や空前の灯火といった風にみえるが、そこで暮らし続ける人たちの明らかな実体があり、その存在の有様をしっかりと認める事は大事なことである。それは量産時代に打ち捨てた人々の心の襞や生活の質を取り戻すための人の意識の再確認である。

山間に暮らす人々のほとんどは高齢者ではあるが、都会生活を満喫する多くの人々と比べて、暮らしの不便さがあるにも関わらず、ある種の精神的な自由度があるように思える事がある。

この「精神的な自由度」ということについて、もう少し場を改めて述べてみたいと思うが、目の前の小さな自然と向き合う小さな地域の小さな集落の暮らしがあって、その小さな集落の暮らしと繋がる小さな人の関わりがあって、人の関わりは町や都市の隙間に暮らす人々にも繋がっているはずである。人間尺度(ヒューマンスケール)の実際的な結びつきを少しずつつくっていかなければ、日本人の暮らしの自由は獲得できないのではないだろうか。古い道や棚田の景色には、いにしえの先人が獲得して来た生きる事の礎があるように思える。

「ローマは一日にしてならず」というが、ローマじゃなくたって、一つの家庭すら一日にしてならず、なのは誰もが理解出来る自明な事であり、ましてやその外側ならなおさらなである。おごらず、侮らず、悲観せず、悲観的に観察考察し、楽観的に決断し、地道に実行する。

地元の方が資材搬送のために使用している背当ての使い方を教えてくれた。
地元の野山で採取出来るヒロロという植物を素材にしてつくられたものである。
藁で出来た背当てを見た事があるが、ヒロロでつくられたものは丈夫だという。

これがヒロロ。日本名はミヤマカンスゲ。大量に群生しているわけではなく
ひとつの背当てやミノをつくるにはかなりの量が必要である。

際の部分には布があてられて編み込まれているが、これは飾りではなく
ヒロロの端を保護する役目のもので、編み込まれたヒロロを長持ちさせる。



現実的に言えば、貨幣経済の経済活動との連携について考えていく事も非常に大事な事である。しかし、山の暮らしに銭が役に立つのかというと、極端に行ってしまえばチェーンソーや車のガソリン代を除けば、ほぼ皆無である。人の力が如何程のものか、自然に対してかなりか弱いところもあるが、現代人が思うよりも人の力と知恵は計り知れないところもある。かといってなければ大いに困るのであるから、どちらも知ってその適正バランスを考える必要がある。我々は道普請を通して、その地域に関わり、古い伝統的な暮らしの作法に学びながら、その地域で暮らすことの意味を丹念に導きだすことが出来ればと思う。

銀山街道道普請の実施にあたって、東北芸術工科大学建築・環境デザイン学科田賀研究室および田賀意匠事務所が計画、施工に関するアドバイスをさせて頂いている。計画、施工というハード面にとどまらず、地域の方々との交流や地域の民俗、歴史、地理的な調査、銀山街道ウォーキングトレイルに関する作業を地元のNPOワクワク奥会津ドットコム、若松測量設計株式会社、会津若松建設事務所と連携しながら行なっている。

 
予定の作業を無事終了した。一カ所はぬかるみが酷く排水経路を確保して、
少し乾いたところで再度土嚢を敷く事とした。

現場を離れ、アスファルト道路に出たところで、解散。
近くにはむかしは棚田だったワラビ畑が広がっていた。
ワラビ畑の向こうに見えるのはキリの木。


作業終了後、間方地区の方々が慰労会を開いてくださった。
今回は道普請だけでなく、翌日の美女峠ウォーキングトレイルもあり、参加者も多数で、盛大に地元の方々にもてなして頂いた。
この地区に伝わる「高姫」の紙芝居を地元の菅家壽一氏が披露してくださった。美女峠には「高姫清水」という湧き水をはじめ、高姫にまつわる場所が色々とある。
大人達に紙芝居と言うのも一風変わった催しであったが、はなしは和歌に詠まれて続き、その情緒と地元の酒とともに大いに盛り上がったのでした。

 
地元の公民館にて慰労会

沖縄県の職員の方の感想挨拶

もてなしの料理の説明を間方奥さんから

間方の蕎麦は一風変わっている。出汁は日本海から鰹節、
具材は大根と牛蒡のみ、麺はそば切りではなく、パスタ製麺機で製麺されたもの
かなりむかしに集落の誰かが持ち込んだそうだが、食感はかなりかわっている。
酒は清酒と濁り酒、地元には造り酒屋はないが地元の米を使いつくられている。

大根菜飯。大根菜は三島町でよくつくられているようだ。

「高姫清水」の伝説の紙芝居が披露された。

ゼンマイの煮物

コゴミの煮物

ワラビの煮物

翌日の美女峠ウォーキングに備えて、早々に一本締めで終了。泊まりは宮下温泉にて。

我々、東北芸術工科大学田賀研究室の面々は、翌日はウォーキングトレイルではなく、ルートの踏査という作業があり、宿泊地に戻ってミーティングをしてその日を終えた。


また、今回の美女峠踏査およびウォーキングトレイルについては別途お伝えする事としたい。


参考:
http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/32632.pdf













2014年9月27日土曜日

益子町土祭(ひじさい) 前土祭(まえひじさい)土祭広場形成

2014年9月5日、益子町に前日夜に前乗りして、朝から10月4日に行なわれる「前土祭(まえひじさい)」の中心会場となる土祭広場(ひじさいひろば)形成作業に参加しました。

計画時に私が提案させて頂いた近自然的な工法と材料の扱いを、町民の方々と実際に現場で共同作業して試しながら、作り方や場のあり方等意見を交わしつつ、徐々に地域のための場がつくられていくプロセスを目指した最初の作業です。
9月5日から7日の3日間、東北芸術工科大学の学生有志と私、助手の渋谷が合宿を行ないながら、地域の方々、役場の方々と作業を行ったのでした。

現場は既に担当の萩原さんの手はずで、間伐した木材(スギ丸太、枝)や近くの建設残土で奇麗なものを中心に、その他町の造園屋さんから頂いたもの、大工さんから借りたもの等を中心に資材を広場に集めて頂いていて、幾つか麻袋など購入したものもあるものの、益子町由来の資材が揃えられていました。

地元の自然資材を使って丸太杭、粗朶柵と盛り土によって、広場のかたちを作っていこうと言う企画です。

作業前の土祭広場

地域から調達した資材

麻袋で土塁の基礎となる土嚢をつくる

地元の方々も集まり、作業開始の朝礼です



「タコ」をつくる



私のこれまでの経験を少々レクチャーさせて頂きながら、地域の方々と東北芸術工科大学の学生有志が恊働して作業に取り組ませていただきました。現場で土塁の基礎を作るための土を突き固める「タコ」という道具もつくりました。

最初の作業は、集めて来た資材を材料として使えるように奇麗に分解する作業です。葉、小枝、中枝、大枝、幹に分解する作業。そして、基礎をつくるための穴掘り。

穴掘りは地面が固く石も多く含まれていたので、手掘りは困難と断念し、ミニユンボを使って掘削する事になりました。そして出て来た土や石を、やはり大石、中石、小石、砂利、土に分類して資材として使えるようにしながら、作業を行っていました。
粗朶柵の下に雨水の経路をつくってそこに石を敷き詰めました。

地元の扱いの上手な方がユンボで穴掘りをおこなう

皆で枝を分解していく、作業人数がいるので思いのほか作業ははかどった

丸太は皮をむいた方がもちが良いと言う事で、皮むきをすることになった
地元の上手に皮むきをされる方が指導して、学生が挑戦。徐々に上手くなっ
て皮むき名人に。色々学生も経験させてもらいました


概ね材料が出来て来たところで、杭入れをして、粗朶を編んでいきました。今回の学生参加は2年生、3年生、4年生で既に、施工演習で粗朶編みを経験しているので、概ねの要領はわかっています。ですが、出来るだけ奇麗に地元の方々と協働してやらなければなりません。コミュニケーションを取りながら、うまく出来たでしょうか。

近くで枝打ちしていたので頂いて来た


杭入れ開始、突き固めながらしっかりと入れていく

地元の方々と共同作業

休み時間にスタッフの方がつくったブルーベリーのシロップでかき氷
暑かったのでかき氷はとても好評。シロップも手作りでとても美味しかった

お昼は近くの地区公民館で地元の方々が用意してくださった

初日は杭入れまでで終了
宿泊は中央公民館の展示室。夕食は役場のスタッフの方が
つくってくれました。注いでいるのは「ブラ汁」じゃなく
て、「ビルマ汁」というものだそうで、初めて食べました
展示室で休むのは滅多にない不思議な体験でありました



2日目からは粗朶を編んでいきました
慎重に力の加減を考えて共同して入れていきます

地元の子供達が重機を動かして作業を手伝ってくれます
嘘です!でも、作業に興味をもって参加してくれました

休み時間に出来上がりつつある粗朶柵の丸太の上でアイスを食べてます

粗朶柵は2種類試しにつくってみました


土塁も試しに一部つくってみました。地元の造園屋さんが応援に駆けつけてくれました
最後にムシロをかけて終了。様子を見てこれで良いとなったら、皆でさらに延長していきます

3日目は大塚町長も作業に参加して、最後の仕上がりを確認
今後、もっと地元の方々の参加出来る企画や場づくりになっていくこと、
そして地元の人たちにとって意味のあるものとなっていく事を願って作業を終了しました





10月4日が楽しみです。(田賀記)


※ 今回は「である」調ではなく、「ですます」調で試しに記述してみました。