2017年8月5日土曜日

懐かしき銀座の風景

懐かしき銀座の風景
銀座コリドー街のにぎわい。
バブル終盤のコリドー街は随分と薄暗い印象だったが、一頃から比べると人で賑わっているのだ。そしてコリドー街の店はことごとく刷新されている。昔見慣れていた看板はほとんどなく、自分が少々馴染みにした店もほとんどない。馴染みにした店といっても、銀座でそれっぽく飲み食いしたいい感じの話ではなく、例えばコリドー街に面した角のスターバックスは昔、モスバーガーだった。
当時、僕はクーラーの効きの悪い勝どきのマンションに暮らしていて、最寄りの商店街というともんじゃで有名な月島商店街か銀座しかなく、月島商店街は夜が早く、銀座もそんなに遅くまで店はやっていないのだが、大体普段に通える店も僕の経済事情では難しく、リーズナブルで深夜営業している店はモスバーガーぐらいしかなかった。バブル崩壊後、コリドー街やそこから銀座通りにかけてのビルの谷間の路地には空き店舗も目立っていた。そのうちワンショット300円ぐらいで飲めるリーズナブルな店が増えていったりして人が少しずつ戻ってきたが、とにかく当時は閑散とした感じで、東京の中心というよりも一地方の場末の街のような感じであった。
夜な夜な涼みに仕事道具を持ってモスバーガーに陣取り、時折通りかかかるホステスさんやサラリーマンの姿を窓越しに眺めながら、金にならない仕事をのらりくらりとやっていた。銀座周辺に暮らしていながら、結構しみったれた生活を送っていたが、最近のにぎわいを目の当たりにして、それも懐かしい思い出になってしまった。
年に一度が、二度ぐらいもんじゃ屋に行き、駄菓子のようにコーラーとプレーンなもんじゃを突き、勝どきの立ち飲み屋へ行く、トリスのハイボールと季節の料理を二、三品。アルコールがほどほど酔い回ったところで、酔い覚ましと涼みに勝鬨橋をわたり晴海通りを銀座へ向かう、交詢社ビル近くの鳥繁でドライカレーを先に頼んでから、適当な串焼きを数本と日本酒の冷を頼みもう一回り酔ってみる。
けれど、月島商店街ももんじゃ屋がやけに増えて随分と雰囲気が変わっていた。馴染みの銭湯もほとんどなくなってしまっていたし、久しぶりに鳥繁に入ってみると、昔のようなサラリーマン客層よりも年配のリタイヤ組や女性の姿がとても目立つ店になっていた。昔通った店を懐かしんだ年配がご夫婦で来店しているような雰囲気だ。
それも時代の趨勢であるのだろう、高齢化社会の良い銀座の雰囲気がつくられていってほしいものだと、年配夫婦の客姿を眺めながら、店の片隅で串を2本、酒は飲まず烏龍茶、締めのドライカレーを頂きながら店を出た。
鳥繁のあと、最後の締めは、近所のバーか帝国ホテルまで足を伸ばしオールドインペリアルバーでボーモアのスペシャルエディションかポートエレンをストレートでワンショットか気分のいい時は二杯目をいただき、キリッと帰る。それがたまの楽しみの飲み歩きであった。
だが、通りすがりで久しぶりにちょっと銀座を回ってみると、どれもこれも懐かしみの中にあることにややたじろいだ。
懐かしみをネガティブあるいはただの懐かしみにするのではなく、このノスタルジーから今の暮らしのリアリティの礎となる価値を見出していくことが大事なのだと思っているのだけれど、そう思う自分ですら、たじろいだ。自分が思う以上に日本社会全体の高齢化が進んでいて、そのこととは別に今の歓楽街に見る表層的な活気をリアルだと思って(思い込んで)活動している状況があって、一歩霞ヶ関に足を伸ばせばデモが行われていたりする。歓楽街もデモもどちらもチラ見で通りすがるしかできていない自分もいる。
勝どきの立ち飲み屋は、その頃暮らしていたマンションの近所ということもあって、2、3週間にいっぺんぐらい行っていたかな。時折、そこの常連だった杉浦日向子さんと遭遇することもあった。隣で一言二言会話を交わしたりしたのだが、神戸の三宮でバッタリイタリア料理店で居合わせた時には驚いた。それから一ヶ月ほどだろうか、彼女の訃報をきいた。
彼女の描いた「合葬」に随分と感じ入っていた。江戸という幻想の世界としか感じられなかった時代を漫画を通じて、幻想でありながらに現代の現実の感覚に繋げ、時代を連続性として顕在化して見せてくれた、その時間軸を縦横無尽に行き来させる感覚に魅せられて、ノスタルジーというものに希望ということと同等の価値を与えて、今の暮らしに落とし込んで物事を考えたいという発意を自分に与えてくれた人だった。亡くなるちょっと前に引き合わせてくれた何かの縁を感じずにはいられない。はなしは逸れたが、今一度、振り返って過去を積極的に見つめて今の、これからの暮らしを考えてみたいと思わせられた通りすがりの銀座の夜だった。
そのうちもう少し杉浦さんのことを書いてみたいのだが、ただ今は、江戸風俗の研究者としての彼女より、ひとり飲み屋にやってきてニコニコと呑んでいた姿を思い出すに留めて

2017年6月26日月曜日

道路の管理

痛ましい事故が起きた。
道路沿いの街路樹の管理は当然の事なのだが、必要な事だが何でもかんでも伐採すればいいという事ではないと思う。
街路樹とは別に、山道について周囲の山林の管理は10年ごとに行うなど、道路管理の一環として行う必要があるとおもう。

私の提案としては道路路肩から10〜15メートルの範囲で、里山管理のように道路管理がなされれば山林環境にとっても、道路の安全性にとってもよい。
是非、考えてほしいものだ。

私が関わっている道普請事業などでも、なかなかその周辺管理について理解が得られないのだが、こうした事故を機に検討する機会としてほしいとおもう。




倒木が乗用車直撃 運転の男性死亡 熊本

25日夜、熊本市内の県道で、高さ9メートル余りの木が倒れて走ってきた乗用車を直撃し、運転していた32歳の男性が死亡しました。倒れた木は古く、根元が腐っていた可能性があり、警察が原因を調べています。
25日午後7時半ごろ、熊本市東区下南部の県道で、道路脇の斜面から、高さ9メートル余りの木が倒れて、走ってきた乗用車を直撃しました。

この事故で車を運転していた熊本市東区渡鹿の介護士、小島由裕さんが(32)頭などを強く打って病院に運ばれましたが、およそ1時間半後に死亡しました。

また、小島さんの後ろを走っていた軽乗用車も倒れた木に接触し、バンパーが壊れるなどしたということです。

道路を管理する熊本市東部土木センターによりますと、倒れた木は直径がおよそ50センチあったということです。

現場では大雨による土砂崩れなどは確認されていないということで、倒れた木は古く、根元が腐っていた可能性があることから警察が原因を調べています。

2017年6月11日日曜日

基地

辺野古に限らないですが、沖縄が返還される1972年ごろまで、父の仕事の関係で進駐軍や自衛隊の基地の内側に暮らし、子供自分の目で見てきた、フェンスの内側からデモ隊やら米軍人や自衛隊員の日常の姿、フェンスに塗られた塗料やサビの匂い、刈り払われた周囲の草の萌える匂い、門兵のいる小屋、戦闘機やヘリの音、悲しいような清々しいような、悔しいような優しいような、なんとも言えぬ、混沌とした感覚はなんとも伝え難く、基地の存在がある種の自分のアイデンティティとなってしまっている、辺野古の基地に着くと熱く込み上げてくるものがありました。戦争体験者ではありませんが「さとうきび畑」という歌の、ざわわ、という響きやウチナーグチの歌詞に重ね合わせてみることができます。
自分が辺野古に唐突に行った意味はもしかしたらあまり伝わらないのかもしれません。沖縄のひとの思いとも全く違うのかもしれません。
ただ、わたしはこの国が、私たちの暮らしが、薄っぺらな政治家や権力者の手によって踏みにじられ、踏みにじられることに無感覚になっていくことが耐えられません。


(写真は、辺野古のキャンプシュワブではなく近所の厚木基地です。)

さとうきび畑 寺島尚彦
ざわわ ざわわ ざわわ 広いサトウキビ畑は
(ひるさる をぅーじばたきや)
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ
(かじが とぅぃぬきぃる びけぇじ)
今日もみわたすかぎりに 緑の波がうねる 夏の陽射しのなかで
(ちゅぅんみぃゆるかじり  みどぅりぬなみがもぉいん(舞う)なちぬふみちぬなぁかぁんじ)
ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
(ひるさる をぅーじばたきや)
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ
(かじが とぅぃぬきぃる びけぇじ)
むかし海の向こうから いくさがやってきた 夏の陽射しのなかで
(んかし海ぬかぁま(彼方)から いくさがゆしてぃちっい なちぬふみちぬなぁかぁんじ)
 
ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
(ひるさる をぅーじばたきや)
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ
(かじが とぅぃぬきぃる びけぇじ)
あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 夏の陽射しのなかで
(あぬひぃかんぼぉぅ(艦砲)ぬあみ(雨)んかい すぃ(父)やうちゅくゎぁってぃ なちぬふみちぬなぁかぁんじ)
ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
(ひるさる をぅーじばたきや)
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ
(かじが とぅぃぬきぃる びけぇじ)

2017年6月9日金曜日

銀山街道の雪解け後の今年度の初踏査(2017年6月1日)

銀山街道銀山峠付近の雪解け後の今年度の初踏査(2017年6月1日)を行いました。
峠道入り口のお手製の看板には、昨年作成されてた銀山街道のロゴが焼印されて、少しずつではあるが一般の方々の利用に向けて整備が進んでいます。

昨年同様にナラ枯れの影響による立ち枯れ、倒木が多く散見された。今年度は根こそぎ倒木する状況が増えている。
今回の踏査より先に行った束松峠での踏査でも、山林はナラ枯れの状況であったが束松周辺は一時期のナラ枯れのピークは過ぎ去ったように思われ、ミズナラの枯れた後にはモミジの仲間が中低木層に多く見られ、ミズナラ林から、いずれモミジを中心とした林に遷移していくように感じられました。

今回踏査の銀山峠付近は、まだそこまでの様子は感じられず、ミズナラの実生が多く次世代として見られるように感じました。現在のように放置していると、ミズナラの立ち枯れが増えるのか、束松付近のようにモミジの林に遷移するのか、まだわかりません。

いずれにしても、山道の管理(あるいは逆に、山林を管理するための山道)を考える時、その山林保全の意味、効率性や合理性から、道のルート左右10〜15メートルずつを道の管理対象とした施策とすることが必要に思います。



山道を整備して人の手が入った道と林の境界のところには、ヒメシャガが徐々に昨年より今年と広がっています。


銀山峠道入口付近と案内記名板

スギ林の林床にはミズナラの実生が多い

一昨年からの根こそぎ倒木した状況(ミズナラ)


立ち枯れしたミズナラも昨年より増えている
今年度の倒木状況

山道の整備によってヒメシャガの群落が拡大している
人の活動が在来の花の開花というかたちで景観に顕われる

踏査のようす
 



キャンプシュワブゲート前

先日、何か自分の中で、いてもたってもいられず、弾丸で辺野古へ行きトンボ帰り。
辺野古の集落は、ベトナム戦争の時代からの残像が残る。沖縄北部集落の過疎化や地域だけでは解決しがたい中央の様々な事情によってねじ曲げられた経過を静かな海を前に感じます。そしてその海も今、中央の勝手な事情で改変されようとしている。
沖縄の人、おじいやおばあの活動はただ基地がどうしたということだけではないのだろうと実感してきました。
キャンプシュワブゲート前に行って、少額ながら活動寄付させてもらってきました。工事車両の入場口はアルソックが通常警備、工事車両の出入りの時に警察が工事車両警備に来ているようです。座り込み抗議の方々は、水曜日が毎週の活動の中心で、常時毎日何人かの方がゲート前に詰めておられます。行くと丁寧に説明くださいました。
そして、数日後、お礼のハガキを丁寧に頂いた。(2017年6月9日 田賀記)

辺野古集落風景

辺野古集落すぐ横のキャンプシュワブゲート前

座り込みの方々から頂いたハガキ



2017年4月1日土曜日

「埋没35分後の生存率はわずか7%」

「埋没35分後の生存率はわずか7%」

今回、雪崩発生後の本部への通報が40分後だったと言われている。「埋没35分後の生存率はわずか7%」この冬山の知見が事実で、冬山登山についての一般的な知識だとすると、そして仮に「絶対雪崩が起こらない場所」であったとしても、「冬山の安全指導」という観点からも、指導者は、少なくとも35分以内に救助を要請し救助活動が行える体制を整えておく必要があった。そのような体制で訓練を行っていることを受講者に指導することも、指導の一環でなければならなかっただろう。
引率者は、雪崩に対して無知であったか、自分たちの活動において雪崩を想定していなかったか、ということになってしまう。登山とはある意味わざわざ危険なところに行くようなものとも言えるし、熟練した登山家や山岳写真家があえなく命を落とすこともある。現場の状況判断が(外野が四の五の言う以上に)結果がどうあれ重視せざるおえないこともありうる。
しかし、今回の件は訓練指導であるという点からこのことを考える必要があるし、学ばなければならないことがある。亡くなられた方々のご冥福を祈りつつ。

 「ビーコンを持った人は、平均埋没時間を170分から20分に短縮でき、死亡率は78.9%から50.4%に低下したと報告されています。近年ビーコンの技術開発が進み、使用法を学べる機会が増えたことで、一般登山愛好家でも活用できるようになりました。
 冬山はとても魅力的ですが、同時にリスクが潜んでいます。雪崩に遭遇しないのが一番ですが、いざ巻き込まれた場合、少しでも助かるように装備をそろえ、人を助ける知識と技術を身に着けて山に入りましょう。(大城氏の記事本文より)」


以下記事。

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4分の3以上が窒息死−−雪崩埋没者への応急処置と予防法!
2016年2月29日 大城和恵 / 北海道大野記念病院医師/国際山岳医

http://mainichi.jp/premier/health/articles/20160224/med/00m/010/005000c

 今回は、雪崩に遭遇した場合の医療的側面をお話ししていきます。早速ですが、皆さんは雪崩による死因は何が一番多いと思われますか? 雪に埋まるわけですから、「低体温症」を挙げる人が多いかもしれません。しかし欧州、および北米での統計では、雪崩埋没時の死因は、窒息が全体の75〜94.6%を占め、次は外傷死で5.4〜23.5%。低体温症による死亡は1%程度と報告されています。

埋没35分後の生存率はわずか7%

 実際に雪崩に遭遇した友人の話を聞くと、「流され始めたら、どんどん口や鼻に雪が入ってくる!」「気を失っていて目が覚めたら口の中に雪があって息ができなかった!」と言います。

 雪崩で埋没してしまった人の生存率のグラフを描くと、時間とともに直線的に下がるのでなく、埋まってから35分後までに、急速に低下するのが特徴です。これは、ごく短時間で命を奪われる急性の窒息の例が多いこと、またそれを免れても顔のまわりが雪で囲まれてしまい、呼吸をする空気のスペース(エアポケット)がなくなって窒息して亡くなる人が多いためです。

 つまり埋没した人の生存率は、時間に大きく左右されることがわかります。2001年、欧州の研究者は埋没35分後の生存率を34%と発表しました。これでも厳しい数字ですが、11年に発表されたカナダでの生存率は35分後に7%、という衝撃のデータでした。

最大4分の1は外傷死

 雪崩は数トンもの硬く巨大な雪のブロックが流れ落ちてくるものです。その速度は時速数十〜200kmにも達し、自分もそれと一緒に流されます。解けては凍り、踏みつぶされて固まった氷の塊、と言った方がイメージしやすく実態にも近いでしょう。雪崩に巻き込まれると、この氷の塊がぶつかってきたり、樹木にたたきつけられたり、さらに塊の下敷きになったりするわけですから、大きな外傷を受ける可能性が高くなります。

 最近の報告では、雪の密度が高く、湿って固まりやすい沿岸部での雪崩では、密度の低いサラサラの雪が積もる内陸部の雪崩より死亡率が高くなる、とされています。雪の密度が高い方が窒息と外傷の発生率を高めるからです。このことを考慮すると、沿岸部、内陸部という地域差だけでなく、季節によっても雪の性質には違いがありますので、死亡率は変わってくるのかもしれません。

低体温症死はわずか1%

 窒息、外傷によって急激に起きる死亡に対し、低体温症死はもう少し時間がかかって進みます。雪崩に埋もれた人は、窒息と外傷を免れても確実に体温の低下が進んでいきます。人の体温低下は最速で1時間に9度低下する、と過去の事例から報告されています。低体温症が著しく進行し、救出が遅れた場合は死に至ります。しかし低体温症が速く進行したが故に、体の酸素消費量が減り、雪の中に残された窒息ギリギリのわずかな酸素で生きながらえた事例もあります。
実際の応急処置 雪から掘り出された人にすべきこと

1.気道確保
 次に、雪崩の現場に居合わせた場合の応急処置法を考えましょう。窒息が死因の4分の3を占めるということで、雪の中から掘り出した要救助者にまず行う気道確保とは、まず口や鼻の中の雪を取り除くことです。次に、胸が重い雪の塊で圧迫されていると呼吸できないので、胸の上の雪も取り除きます。

2.人工呼吸+胸骨圧迫
 そして、直ちに人工呼吸と胸骨圧迫(心臓マッサージ)の心肺蘇生処置を行います。必ず現場で開始してください。掘り出した人に心肺蘇生を行わず病院に運んだ場合、助かる確率は非常に低くなります。

 アメリカ心臓協会(AHA)などによって作成されているガイドラインは、10年版で「突然意識を失った人に対しては、人工呼吸より優先して胸骨圧迫を行う」と内容を改定しました。特に、心肺蘇生法に習熟していない一般の人は、人工呼吸は行わず、「できるだけ中断せずに胸骨圧迫を続けるべし」としています。これはとても実践的で、医療資格のない人でも、道具がなくても、迷わず始められる素晴らしい方法です。しかしこの方法は「窒息をしていない人に行う」というただし書きがあるのです。

 雪崩で埋没した人は、少なからず呼吸のできない時間があり、窒息した、あるいは窒息しかかっている人です。こういう場合は、必ず胸骨圧迫と同時に人工呼吸をします。酸素を吹き込んであげなければ、蘇生は非常に困難です。

 「マウス・ツー・マウスは、病気がうつるかもしれないのに、してもいいのですか?」と思った人、いますよね。はい、こういう緊急時には、感染防護のためのビニール素材のシールドやポケットマスクなどは準備ができないことがほとんどでしょう。分刻みで生存率が下がるのに、その道具を探していたら、蘇生のタイミングを逸するかもしれません。

 これまで、直接口を接触させたマウス・ツー・マウスで、B型肝炎、C型肝炎、HIVに感染した報告はありません。10年のAHAガイドライン、国際山岳救助協議会の勧告でも、緊急時に感染防護具を使用しないことは許容し得る、としています。

 「酸素ボンベがなくても大丈夫ですか?」。はい、大丈夫です。私たちの吐く息には酸素が14〜17%程度含まれています。

3.外傷の有無の確認

 次に、けががないか確認しましょう。出血があれば圧迫して止血をはかります。外からは判断できないけががありそうな場合は、できるだけ体をまっすぐ水平にしておくとよいでしょう。

4.低体温症対策
 低体温症は死因としては1%と低いですが、程度の差はあれ、潜在していたり進行していたりしますので、その対応を行います。その詳細は当連載の「低体温症」の項を参考にしてください。

心肺蘇生を行うケース、行わないケース
 まず、掘り出した際に体が切断されている、胸が凍り付いてしまって胸骨圧迫ができない場合などは、心肺蘇生の保留は認められます。救助隊に引き継ぐことがよいでしょう。

 「埋没後35分で生存率が下がる」という知識が広まったことや、事故現場は非常にストレスフルなため、心肺蘇生の開始が適切に行われていない、という報告も専門家の間ではなされています。

 「発生から35分過ぎてしまった人には、心肺蘇生を行わなくてもいいのですか?」。いいえ。35分が経過しても生存していた人はいます。特に、口や鼻が雪で塞がれていない人(気道閉塞〈へいそく〉が起きなかった人)は、1時間以上の埋没でも生存していた例があります。中でも低体温症を合併した場合、エアポケットが大きかった場合は、生存の可能性が上がります。

「致命的外傷がある」「胸が凍って硬い」なら、心肺蘇生は保留
 ですから現場では「致命的外傷がある」「胸が凍って硬い」以外は、心肺蘇生を開始しましょう。現場が安全なら20分は続けましょう。救助隊に引き継ぐ場合は、できるだけ心肺蘇生の中断を短くして継続して到着を待ちましょう。再び雪崩が起きる危険がある場合など、すぐに現場から退避せねばならない状況では、退避が遅れないようにしつつ、その合間や退避後にできる範囲で心肺蘇生を続けましょう。

雪崩に遭遇したら〜まとめ

 雪崩に遭遇した場合の救助手順をまとめます。

○救助要請
○自分の安全の確保
1.要救助者を掘り起こし、気道確保(口や鼻の雪を除去する)
2.人工呼吸+胸骨圧迫
3.外傷の確認
4.低体温症対策
救命率を高める装備
 雪崩に遭った際の救助率を高める装備として、専用のエアバッグや埋没位置を仲間に知らせるビーコンがあります。これは前回も紹介しました。エアバッグの使用により完全埋没の割合が47%から13%に、死亡率が35.3%から1.3%に低下したという報告がありました。しかし最近はエアバッグを過信し、より過酷な環境に挑む例が増えて救命率は低下しているようです。
 ビーコンを持った人は、平均埋没時間を170分から20分に短縮でき、死亡率は78.9%から50.4%に低下したと報告されています。近年ビーコンの技術開発が進み、使用法を学べる機会が増えたことで、一般登山愛好家でも活用できるようになりました。
 冬山はとても魅力的ですが、同時にリスクが潜んでいます。雪崩に遭遇しないのが一番ですが、いざ巻き込まれた場合、少しでも助かるように装備をそろえ、人を助ける知識と技術を身に着けて山に入りましょう。

大城和恵
北海道大野記念病院医師/国際山岳医
おおしろ・かずえ 1967年長野県生まれ。医学博士、山岳医療修士。日本大学医学部卒業後、循環器内科医として約10年間の付属病院勤務を経て、「山での遭難者を助けたい」という思いを募らせて本格的に山岳医療の勉強を始める。98年、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロ(5895m)に登頂。心臓血管センター大野病院(現・北海道大野記念病院)を拠点に診療を続けるが、09年に退職し渡英。1年をかけて日本人として初めて「UIAA(国際山岳連盟)/ICAR(国際山岳救助協議会)/ISMM(国際登山医学会)認定国際山岳医」の資格を取得した。現在は同病院の循環器内科・内科および登山外来で勤務するかたわら、北海道警察山岳遭難救助隊のアドバイザーも務める。遭難実態を知り、現在遭難しないための医療情報、心臓死の予防、高所登山のアドバイス、ファーストエイド技術の講習会主宰など、山と登山に関する多方面で活躍する。13年には三浦雄一郎さんのエベレスト遠征隊にチームドクターとして参加した。自身もマッキンリー、マッターホルン、マナスル(世界第8位)登頂など海外を含む豊富な登山歴を持つ。

2017年1月17日火曜日

明暦の大火から上山まで話をただ繋げてみた。

江戸城の天守閣は明暦の大火(明暦3年1657年)で焼け落ち、経済性と戦のない時代の機能不要性という理由から再建されなかったというけれど、本当でしょうか?

現に新井白石らによって天守閣の計画図までは作られたというし、実際に天守閣の石積基礎まではつくられ現存しています。

江戸時代よりも機能、経済重視とされる現代でさえ、超高層ビルやら東京タワーなどのテレビ塔など、機能に託けながらも象徴的な建設がなされたりします。ましてや封建社会の真っ只中、天守閣といわないまでも、それに類する象徴が本来は必要とされたりするのではないでしょうか?

しかし、この天守閣を建設せず、という重大な決定を行ったのが、二代将軍秀忠の四男として生まれ、武田信玄の家臣信濃高遠藩主保科正光の子として育てられた保科正之であったといいます。

秀忠死後、三代将軍となった家光はこの異母兄弟の存在を知らされて殊の外可愛がったそうです。その後、保科正之は出羽山形藩を拝領、ついで陸奥会津藩主となり松平姓を賜り大名となり、家光の死後、四代家綱の補佐役となりました。

ところで会津に伺い、蕎麦を頂く機会があれば、必ず高遠蕎麦を目にします

高遠蕎麦とは、高遠由来の辛味大根のことで、この辛味大根のやや甘みと辛味のある大根汁に醤油を垂らして、これを汁として食べる蕎麦のことです。信濃高遠藩からやってきた殿様(保科正之)が、蕎麦を食べるときに「これたかとうをもて」と言い、以来蕎麦には、この辛味大根汁が付け合わせられることになったのが由来だといいます。正之は、四代家綱以降、江戸詰がほとんどであったそうですが、後期の会津藩政の基礎を築いたといわれています。

育ての親への忠義から保科正之は松平姓を固辞したという話からは、その人柄がうかがえます。日本初の老齢年金制度を実施したといわれ、江戸城天守閣不要とし城下町の復興を主眼にした政策実行と共通する姿勢がうかがえます。

保科正之が入部するまでの会津藩は秀吉時代に蒲生氏郷が入部し、その嫡子蒲生秀行時代に関ヶ原の戦いで東軍につき功績を挙げ、また家康の三女(振姫)正清院が秀行の正室だったこともあり優遇されたといいます。

その後、秀行と振姫(正清院)の間に生まれた長男忠郷が会津藩主となり、次男忠知が出羽上山藩主となりました。忠郷が早世し蒲生家が断絶となるところ、弟忠知が家督を継ぐことを許され、伊予松山藩に減封されることとなりました。

蒲生家が退いた後の会津藩は、松山から入れ替わり加藤嘉明が入部、二代目で改易され、保科正之が入部することとなりました。

一方、次男忠知の居た上山藩は、その後、土岐氏、金森氏と藩主が安定しませんでしたが、江戸中期に松平信通が移封して藩主がようやく安定しました。

上山までなんとか無理矢理話を繋げてみました。。。。