論考資料3(雑感覚書)

2015年1月5日 映画とランドスケイプ、境界

自分の中で(建築を含む)ランドスケイプへの意識を芽生えさせた映画と言えば、テオ・アンゲロプロスの「シテール島への船出」。
アンゲロプロスの国境の意識が時間的にも空間的にも多重にみえた。
境界とは決して線ではない。ということを意識した。その境界についての意識がランドスケイプデザインと言えるかもしれない。
それにしても、ずいぶん昔のことになるが、勝どきで事務所をやっていた頃、近所の青木淳さんのアトリエに遊びに行って雑談をした時、「農地と町の境界らへんのことがやりたい。そういう境のあたりは皆あまり目に留めていないと思う。」というようなことを言ったら、淳さんが「境とは、隙間がないところだと思うよ。」と言われたことを思い出した。農地と町の領域がぶつかり合って隙間がないところ、あ、確かに、と思った。機転の効いた発想するものだと感心した。

それから境界とはある領域とある領域がぶつかり合って隙間なく輪郭めいたものがあるようにイメージしていたのだが、それからだいぶ時間が経って、そうでもないなと思うようになった。

ある領域とある領域は重なり合ってあるバッファーをもって幅のあるものであって、線や輪郭ではないということを農村や農地、町の風景を眺め思うようになっていた。

境界についての意識を拡げて随分と思考が深まってきたが整理できていない。見えてきたものもあるけれど。

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2017年1月18日 リアルだよね。

思わず「リアルだよね。」と言ってしまいそうになって、日本語にいい直して「現実的だよね。」と言い、言い直した言葉に違和感を感じてしまっている。「実際的だよね。」と言ったほうがよかったのか、それでも違う。いろいろ考えた挙句、「実在的」という言葉が意味としてしっくりすると思ったりするのだけれど、普段遣わない「実在的」という言葉をつかうことが実在的でなく、やはり「リアルだよね。」というカタカナ言葉を使わざるおえないところにもどかしさがあったりするのでした。

※ もともと「real」という形容詞は<物>を意味する「res」に由来し、「事物が何であるかというその事象内容に属する」とか「事物のそうした事象内容にかかわる」という意味である。すくなくともカントの時代までは、この言葉はそういう意味でしか使われていなかったということを、ハイデカーはデカルトやバウムガルテンのこの語の用法に照らして論証してみせる。(p49、ハイデカー拾い読み、木田元著、新潮文庫)