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2025年9月25日木曜日

綺麗なグリーンの特製ドライマティーニ

鹿の赤ワイン煮、鶏モモ肉のコンフィ、デザートはカボチャのカステラ。特製ドライマティーニと、久しぶりにカクテルを作って飲む。
いわゆるドライマティーニは、ジンとヴェルモットをステアして、オリーブをグラスに沈め、最後にオレンジだかレモンだかのピールの香りをグラスの上に放つらしいのですが、特製マティーニは、イチジクの葉を漬け込んだタンカレーとノイリーで割ってステアしたものです。我ながら、ジンのネズの香りとイチジクの香りが合間って絶対に鹿肉には合うだろうと思う(針葉樹のネズの木のある標高の高い山地と鹿の生息地が近くて風景まで感じさせてくれるよう)。小洒落た感じでオリーブを1つではなくて、一杯に付き3つ、4つはオリーブを入れてオリーブをカリカリしながら塩味味わいながら飲むのが吉(写真にはオリーブが1つしか見えないけど、4ついれたんだけど、食べちゃったさ)。
イチジクの生葉を漬け込んで綺麗なグリーンに染まったタンカレーが特製マティーニを爽やかにしてくれる。オリーブのグリーンとイチジク葉のグリーンの取り合わせが綺麗だなぁ。
ちなみに、鹿の赤ワイン煮も鶏もも肉のコンフィも、カボチャのカステラ(ナスのコンポート添え)も、27日の只見町のこみと屋さんでの営業の仕込みなので、食べたわけじゃないです。
(こみと屋さんインスタ→ https://www.instagram.com/komitowu/?hl=ja 、美味しいカンパーニュを販売してます。)

僕のご飯は、海苔とかつぶし、胡麻塩をかけたご飯とけんちん汁。どちらも先日営業の残り物。でも十分美味いよ。

マティーニは、最近の瓶詰めの成果を試したもの。イチジクの葉っぱは、乾燥したもの、オイル煮付けたもの、そしてお酒につけたものを作ってみた。色は綺麗なグリーンだが、豊富にポリフェノールを含み、肝障害、高血圧、血管の保護、皮膚の炎症防止に効果があるらしい。イチジクは神奈川の家の庭で出来たもの。他にビワの葉を乾燥させてビワ茶に、暑さのせいか実はかなり収穫できたのでブランデーに漬け、またビワ酢も作ってみた。ビワ茶は綺麗な赤色で、ビワの実の酢はアンニンのような独特の香りと自然な甘さが吉。
そして、只見町の布沢地区で採れる堅果になる前の未熟なオニグルミの実を煮出して熟成させて、絵を描くためのインクとお酒を作ってみた。クルミのお酒はイタリアでは作るらしい。ザラメとねっか(只見のお酒)煮出したクルミの液体を混ぜて発酵させる。黒い独特な自然なインク?の味わいは多分、消化機能を補完してディジェスティーボとして飲める感じです。
そんなわけで、緑と赤と黒と揃った感じが嬉しい。
スタンダールになぞらえれば、自然(緑)と生(赤)と死(黒)が揃った、というところか。
19世紀中期、産業革命の後、様々な階級闘争が起こり、権力と経済抗争が分化して、魑魅魍魎(自筆なら書けない漢字)が群雄割拠し、個人にしろ国家にしろ生と死を往来した時代を背景に主人公が葛藤する様が実際の事件に準えて小説化された「赤と黒」。歴史は繰り返されるように、現代もまた似たような状況に見える。19世紀は、古典主義からロマン主義が台頭し庶民のリアルを体現しようとするなか、クールベのような田舎から抵抗勢力として芸術と社会に直接関与する芸術家が現れた。ナポレオンの後、王政復古を唱えるものも後をたたず混沌とした、保守も革新も区別することが無意味な社会にあって、誰もがどう生きるかを模索しなければならないシビアな時代に、現代も当てはまるのではないか。石破総理が、国連総会で、観衆もまばらな中、なかなか立派な演説を行ったが、貶す輩も多い。良いじゃないか、良いことを公前で言えた時には、たとえダメな政党政治、与党でも評価してあげれば。マリオの格好で公前に登場したヤツより全然マシだ。国会で同じように振る舞えればと、但し書き付きだが、高市や小泉や茂木や野党の連中より、瞬間だけだったが余程マシだったとおもう。瞬間でもマシなことに次々と喝采を送る。人となりではない、人となりはどんどん変化する。それよりマシな直接的な事象の連続に喝采を送り続けることに意味があるのではないか。
ヴェンダースの頭でっかちな映画が嫌いだ。ヴェンダースの映画よりベンダースのインタビューの方が断然良い。ヴェンダースは、サム・シェパードの脚本と組み合わさって、素晴らしい映画が生まれる。サムだって、俳優としては高身長でカッコイイばかりで、ザ・アメリカみたいな役柄でしかないけど、彼の書いたものをヴェンダースが撮れば、脚本も俳優としても光ってみえる。是枝監督もそうだが、ヴェンダースは配役が良いことは確かだ。そういうセンスを頭でっかちさが邪魔をしてる。理解できない情緒が必要なんだよ。だから、ヴェンダースはパトリシア(・ハイスミス)に焦がれているのかもしれない。パットは言う
「人の願いには、失望がついて回る。それでもそれは普通のことだし、多くの人は正気を保っている。つまり人は誰しも希望を抱くけれど、仕事や結婚などに望んだものが叶う保証はないのよ・・・・・。」
素晴らしい出会いは人生を軽やかにしてくれる。ただしそれは人生の重みの欠如という意味でもある。(Patricia Highsmith)

軽やかな素晴らしい人生と人生の重みの両方を体現したがるという、大いなる矛盾に私たちは生きているのかもしれない。
慎重な悲観主義と楽観主義の行動と実効性のバランスの中に生きざるおえない、と言ったところか。

布沢では、昨年豊作だった野生かしたスモモはほとんど実をつけなかったが、昨年収穫した実が、ジャムにしたものと冷凍保存してあって、グラニテかジャムとして食べられる。ヨモギは昨年より今年、草刈りをしながら、かなり多めに収穫して乾燥粉末にして、お茶かケーキかお餅にする。ハッカも耕作放棄地で大量に収穫でき、使うたびに採りに行く。と言った具合で、歳時記的なスケジュールを組んで要領よく時期をみて活動すれば、色々と物産が得られると具体的に思えるようになった。もちろん、村の人がつくるお米や村ぐるみで育てている蕎麦もある。ただ、どれをとっても結局労働力をどう確保するかが鍵だし、収穫効率化を図れなければ経済化も難しい。趣味の程度から経済化するには、同じ田舎でも山地の田舎と平地の田舎では大きく生産性に違いが出てくる。山地の現代的な意味での生産性は、便利な田舎と比べてかなり難しい状況であると認識しなければなりません。
基本的には現代的に言えば、山地は、
生産効率のかなり低い土地であることから、ほとんどの現代的な一般的な産業化の可能性が乏しく、自立的というよりは、国土保全の公益性を社会が認めなければ難しい土地柄でもあることも実感する。日本有数の積雪地であることも、生産性の低さを比較されて、現代社会からは打ち捨てられやすい土地柄であると判断されることも十分にありうる。
それでも、蕎麦の作付けをコルホーズ的に行い、共産的ではない現代の市場に対抗しうる経済化を模索しなければならない。そのへんは村の人が頑張ってくれるとして、自分の苦手な販売戦略を考えなければならないのだなぁ、、、。パッケージデザインとか、販路とか、、、。

などと、うつらうつらと考えながら、綺麗なグリーンのマティーニを飲むのでした。ぁぁ久しぶりに飲みながら、パソコンを前にしたので、だらしなく長々と取り留めなく書いて(打ち込んで)しまった。 


2023年2月24日金曜日

なまらないように(ある日)

 お籠もりが続き足腰が弱る。マズイと思い今日は晴れていたので少し歩くことにした。

家を出て若宮八幡に向かう途中村の人が出掛けようとしているところに出会う。スノーモービルを積んでいたので、何処に乗りに行くのか聞くと、イノシシ狩りに行くと。
獲れたら分けてくれると言って出ていった。
それから若宮八幡へ向かい橋を渡ったけど、神社まではカンジキでも履いていないと無理そうだったので、途中の雪の上に腰を下ろし、雪景色を眺めながら携帯してきた湯をすする。
お茶にすれば良かったか、腰に敷くマットがあれば良かったかなど考えながら、まだ陽が上がったばかりの冷えた空気の静かな景色を眺める。気分はいいがさすがにそう長居は出来ないなと腰を上げ、それに体を動かそうと出て来たのだからと、毘沙沢の方に向かってみることにする。途中、沢の入り口で何人かの村人に会い挨拶をして、ゆるい坂を登っていく。圧雪されてはいるが車の通れない道を歩く。時折、キジのような鳥の声がする。詳しくないので同定はできない。
圧雪された道は少し足を取られるものの、思いの外硬く閉まった雪でカンジキなしでも歩きやすく上の方まで歩けるような気がして、歩みが進んだ。結局集落まで辿り着き、ちょっと挨拶と思ったが、お茶とお菓子を頂き、長話をしてしまった。
30年前の様子や色々な話を伺い、沢を降りた。
来た時より気温が上がり手袋をしないでもそんなに悴まない。素手で空気を感じながら歩くゆるい下り坂は快適だった。
家に戻り、昼過ぎに朝約束した肉を持って来てくれた。
今日は収穫はなかったそうだが、代わりに以前に獲ったシカとイノシシの肉を届けてくれた。刺身にすると美味いというシカの部位もつけてくれた。コイツはラッキーだ。さていつ料理するかな。 (2023.02.23)


2023年2月5日日曜日

シラカシの純林

 あまり難しいことは書きません。雑感をダラダラと書き留めます。
たまに散歩する公園の斜面林はシラカシの純林ということで神奈川県の天然記念物に指定されているのだとか。この泉の森と言われる公園は小学生の頃、水源池、と言われていた場所で、「1人で遊びに行ってはいけません」とか「入っちゃいけませんとか」言われていましたが、今は公園として整備されています。


天然記念物と言っても、人が薪炭林などで管理していた二次林の樹林なのだと思いますが、相摸野台地という周囲に山というものが全くない場所で、樹林として残っているということがとても貴重なのかもしれません。ほとんど都市化してしまった神奈川の北部の貴重な二次的な自然と言えるのでしょう。国道246号線や東名高速道路で都心から来て初めて出会う大きな緑地帯で、大きな道からも林冠を見ることができます。

このシラカシの樹林の林床に生えているものを見ると、ほとんどトウネズミモチかネズミモチ、そしてマンリョウ、センリョウがちらほらといます。
シラカシは常緑樹なので樹林自体は少し暗めです。植生的に面白いかと言われれば、もう少し多様性があってもいいかなとか、勝手に思ったりします。純林で残すのもいいけど、循環里山みたいな部分を整備、管理しても良いのではないかな、と思ったりしますが、今は管理が行き届かず、樹冠からの大枝の落枝の可能性がある場所などは通行禁止になっていたりして、なかなか管理も樹林の維持の考え方も含めて調整して市民活用というには難しい課題もありそうです。

この公園は現状の緑を残すように管理されていますが、それは大和市の水源池であることからなるべく人が開発的な活動をしないように維持されてきたことが、現代の都市化した首都圏郊外でこれだけの緑地が残された大きな要因なのだと思います。それゆえ山地じゃない場所でよく樹林が残されていて、もし水源地でなければ多分開発されて緑地など残っていなかったことでしょう。自前の水が確保されているということは、その土地の自然度を保つということ、そしてそのお陰でそこで人の暮らしが担保されていることの現れ。逆に言えば、自然度のない場所は人の暮らしが自立して成立しない土地であることは間違えがありません。
都市化した都心、そして郊外でのそれでも人の暮らしは自然と切り離せないことを象徴的に見せてくれている場所はとても貴重なのだと思います。この泉の森をはじめとした引地川に沿って連続する公園群は市民の憩いの場としてよく活用されていると思いますし、水源池ということもそれなりにPRされているとは思うのですが、それ以上に人々の生命の源泉としての水源の保全ということに必要な自然度、ということをもっと周知しても良いのではないかなと思うのでした。


2022年1月2日日曜日

【四方山話・役にも立たないどうでもいい思い出話なのに意外と自分には大事という、の覚書・設計事務所のバイト】

 【四方山話・役にも立たないどうでもいい思い出話なのに意外と自分には大事という、の覚書・設計事務所のバイト】

最近歳をくったせいか、学生時代の事を思い出します。思い出しても、今後も自分の今の仕事で語ることもなかろうと思うので、FBぐらいで言っとこうか。建築から離れちゃったから、こんな話もしやすいってこともあるかも。
今の建築の学生も、色々と設計事務所の模型のバイトすると思うんだけど、今思い返すと良くやってたとも思うし、もっと違ったことにエネルギーを費やしていたらとも思う。多分、頭良い同世代の人達はもっと要領よく色々やってたんだと思うけど、自分はかなり近視眼的に目の前の模型を作ることに熱中していたように思います。
いろんな建築家の模型を作ったなぁ、
吉村順三、石井和紘、石田敏明、内藤廣、曽根幸一、磯崎新、北川原温、玄・ベルトー・進来、茂木計一郎(敬称略)、えっと、もっと他の先生のもやった気がするけど、後は三菱地所とか大手設計事務所やゼネコン設計部の模型もやりましたね。まぁ兎に角、良くも(悪くも)色々学生時代に経験させていただきました。一番多くて長らくやってたのは、磯崎さんですかね、磯崎アトリエは、秘書の網谷さんと経理の方が良くしてくれて、お金が無いとバイト代を直ぐ出してくれたので、貧乏学生の私はとても助かりました。
あぁ、
腹が減って買い食いしてたりすると、ちゃんとしたものを食べなさい、みたいに言われて磯崎さんの奥さん、愛子さんがたまにオーガニックの箱重弁当を差し入れてくれて、これも有り難かった。
大学にいるよりも長い時間磯崎アトリエに居て、家が遠かったので、比較的家が近かった一緒にバイトしていた友人の家に泊まり、また次の日にアトリエに行くということで、大学の単位はギリギリのボンクラ学生なのでした。
今の学生さんはどうなのかわかりませんが、設計事務所のバイト経験は良いとも悪いとも言えない。図を読んで形にするという経験にはなったが、それで設計が出来る様になる訳でもない。それをどう生かすかは、その人によるだろう。
自分はどうだったかと言われれば、磯崎アトリエで、模型というよりも、レリーフを作ったり、普通の模型じゃできない形を工夫して作ったり、シルクスクリーンの原画を起こす、みたいな大よそ設計とは関係のない美術造形的なところでの経験が一番楽しかったし、良かったといったところなのでしょう。
そうしているうちに、曽根(幸一)さんからは、「キミ、建築設計より模型屋になったら良いんじゃないか?」と言われ、ええっ、建築家の御用聞きの模型屋を一生やるなんて、真っ平御免といった顔をしたら、曽根さんはビジネス的に良いんじゃないかと言うことだと、言い直した。確かにその後、磯崎アトリエでは専門の模型職人を雇っていたし、模型をつくる会社も結構できたように思う。だけど、あんなプラスチック素材を中心にした不健全な諸素材を使う造形なんてどうなのか?オモチャの原型とかなら兎も角、建築とか建設とか、そうした社会インフラの計画が不自然な(今なら化石燃料を駆使したような、と言うことか)もので延々と検討するなんて、先行きがあるようにも思えん、などと思って、その後ほぼ模型はやめてしまった。
昔、東京芸大の彫刻の先生から聞いた話では、良く設計事務所のバイトに行ったと言っていた。当時はスチレンボードなど、石油由来の便利な模型材料はなく、木を削ったり切ったりして、一番加工しやすい材料でもバルサ材で、木彫の学生が重宝されたと言っていた。もしその時代に学生だったなら、木彫の延長でやっても良いと思っていたかもしれない。
時代は移り変わる。ハリウッドでも、元の模型を作るよりも、それにリアルに色やテクスチャーを貼り付けるCGの仕事の方がギャラが良いというし。今の学生も様々なソフトのCG画像でプレゼンテーションをする。それでもまだ学生課題も含めて、模型の需要はあるようだ。しかし、自分が模型を作っていた時とは随分と模型に対する意識も違ってきているようにも思える。自分には模型は、あくまでも思考のプロセスの一環だった。しかし、今はプレゼンテーションの役割の方が大きいようにも見える。周りからもそれが求められていると思います。
しかし、果たしてプレゼンテーションの立派さに見合うだけの思考の作業量や思考の質が担保されているか甚だ疑問も湧いてきます。学生だけでなく自分も、社会人も皆、思考がライトになっていってしまっているような気がしています。

2017年8月5日土曜日

懐かしき銀座の風景

懐かしき銀座の風景
銀座コリドー街のにぎわい。
バブル終盤のコリドー街は随分と薄暗い印象だったが、一頃から比べると人で賑わっているのだ。そしてコリドー街の店はことごとく刷新されている。昔見慣れていた看板はほとんどなく、自分が少々馴染みにした店もほとんどない。馴染みにした店といっても、銀座でそれっぽく飲み食いしたいい感じの話ではなく、例えばコリドー街に面した角のスターバックスは昔、モスバーガーだった。
当時、僕はクーラーの効きの悪い勝どきのマンションに暮らしていて、最寄りの商店街というともんじゃで有名な月島商店街か銀座しかなく、月島商店街は夜が早く、銀座もそんなに遅くまで店はやっていないのだが、大体普段に通える店も僕の経済事情では難しく、リーズナブルで深夜営業している店はモスバーガーぐらいしかなかった。バブル崩壊後、コリドー街やそこから銀座通りにかけてのビルの谷間の路地には空き店舗も目立っていた。そのうちワンショット300円ぐらいで飲めるリーズナブルな店が増えていったりして人が少しずつ戻ってきたが、とにかく当時は閑散とした感じで、東京の中心というよりも一地方の場末の街のような感じであった。
夜な夜な涼みに仕事道具を持ってモスバーガーに陣取り、時折通りかかかるホステスさんやサラリーマンの姿を窓越しに眺めながら、金にならない仕事をのらりくらりとやっていた。銀座周辺に暮らしていながら、結構しみったれた生活を送っていたが、最近のにぎわいを目の当たりにして、それも懐かしい思い出になってしまった。
年に一度が、二度ぐらいもんじゃ屋に行き、駄菓子のようにコーラーとプレーンなもんじゃを突き、勝どきの立ち飲み屋へ行く、トリスのハイボールと季節の料理を二、三品。アルコールがほどほど酔い回ったところで、酔い覚ましと涼みに勝鬨橋をわたり晴海通りを銀座へ向かう、交詢社ビル近くの鳥繁でドライカレーを先に頼んでから、適当な串焼きを数本と日本酒の冷を頼みもう一回り酔ってみる。
けれど、月島商店街ももんじゃ屋がやけに増えて随分と雰囲気が変わっていた。馴染みの銭湯もほとんどなくなってしまっていたし、久しぶりに鳥繁に入ってみると、昔のようなサラリーマン客層よりも年配のリタイヤ組や女性の姿がとても目立つ店になっていた。昔通った店を懐かしんだ年配がご夫婦で来店しているような雰囲気だ。
それも時代の趨勢であるのだろう、高齢化社会の良い銀座の雰囲気がつくられていってほしいものだと、年配夫婦の客姿を眺めながら、店の片隅で串を2本、酒は飲まず烏龍茶、締めのドライカレーを頂きながら店を出た。
鳥繁のあと、最後の締めは、近所のバーか帝国ホテルまで足を伸ばしオールドインペリアルバーでボーモアのスペシャルエディションかポートエレンをストレートでワンショットか気分のいい時は二杯目をいただき、キリッと帰る。それがたまの楽しみの飲み歩きであった。
だが、通りすがりで久しぶりにちょっと銀座を回ってみると、どれもこれも懐かしみの中にあることにややたじろいだ。
懐かしみをネガティブあるいはただの懐かしみにするのではなく、このノスタルジーから今の暮らしのリアリティの礎となる価値を見出していくことが大事なのだと思っているのだけれど、そう思う自分ですら、たじろいだ。自分が思う以上に日本社会全体の高齢化が進んでいて、そのこととは別に今の歓楽街に見る表層的な活気をリアルだと思って(思い込んで)活動している状況があって、一歩霞ヶ関に足を伸ばせばデモが行われていたりする。歓楽街もデモもどちらもチラ見で通りすがるしかできていない自分もいる。
勝どきの立ち飲み屋は、その頃暮らしていたマンションの近所ということもあって、2、3週間にいっぺんぐらい行っていたかな。時折、そこの常連だった杉浦日向子さんと遭遇することもあった。隣で一言二言会話を交わしたりしたのだが、神戸の三宮でバッタリイタリア料理店で居合わせた時には驚いた。それから一ヶ月ほどだろうか、彼女の訃報をきいた。
彼女の描いた「合葬」に随分と感じ入っていた。江戸という幻想の世界としか感じられなかった時代を漫画を通じて、幻想でありながらに現代の現実の感覚に繋げ、時代を連続性として顕在化して見せてくれた、その時間軸を縦横無尽に行き来させる感覚に魅せられて、ノスタルジーというものに希望ということと同等の価値を与えて、今の暮らしに落とし込んで物事を考えたいという発意を自分に与えてくれた人だった。亡くなるちょっと前に引き合わせてくれた何かの縁を感じずにはいられない。はなしは逸れたが、今一度、振り返って過去を積極的に見つめて今の、これからの暮らしを考えてみたいと思わせられた通りすがりの銀座の夜だった。
そのうちもう少し杉浦さんのことを書いてみたいのだが、ただ今は、江戸風俗の研究者としての彼女より、ひとり飲み屋にやってきてニコニコと呑んでいた姿を思い出すに留めて

2017年6月26日月曜日

道路の管理

痛ましい事故が起きた。
道路沿いの街路樹の管理は当然の事なのだが、必要な事だが何でもかんでも伐採すればいいという事ではないと思う。
街路樹とは別に、山道について周囲の山林の管理は10年ごとに行うなど、道路管理の一環として行う必要があるとおもう。

私の提案としては道路路肩から10〜15メートルの範囲で、里山管理のように道路管理がなされれば山林環境にとっても、道路の安全性にとってもよい。
是非、考えてほしいものだ。

私が関わっている道普請事業などでも、なかなかその周辺管理について理解が得られないのだが、こうした事故を機に検討する機会としてほしいとおもう。




倒木が乗用車直撃 運転の男性死亡 熊本

25日夜、熊本市内の県道で、高さ9メートル余りの木が倒れて走ってきた乗用車を直撃し、運転していた32歳の男性が死亡しました。倒れた木は古く、根元が腐っていた可能性があり、警察が原因を調べています。
25日午後7時半ごろ、熊本市東区下南部の県道で、道路脇の斜面から、高さ9メートル余りの木が倒れて、走ってきた乗用車を直撃しました。

この事故で車を運転していた熊本市東区渡鹿の介護士、小島由裕さんが(32)頭などを強く打って病院に運ばれましたが、およそ1時間半後に死亡しました。

また、小島さんの後ろを走っていた軽乗用車も倒れた木に接触し、バンパーが壊れるなどしたということです。

道路を管理する熊本市東部土木センターによりますと、倒れた木は直径がおよそ50センチあったということです。

現場では大雨による土砂崩れなどは確認されていないということで、倒れた木は古く、根元が腐っていた可能性があることから警察が原因を調べています。

2017年6月11日日曜日

基地

辺野古に限らないですが、沖縄が返還される1972年ごろまで、父の仕事の関係で進駐軍や自衛隊の基地の内側に暮らし、子供自分の目で見てきた、フェンスの内側からデモ隊やら米軍人や自衛隊員の日常の姿、フェンスに塗られた塗料やサビの匂い、刈り払われた周囲の草の萌える匂い、門兵のいる小屋、戦闘機やヘリの音、悲しいような清々しいような、悔しいような優しいような、なんとも言えぬ、混沌とした感覚はなんとも伝え難く、基地の存在がある種の自分のアイデンティティとなってしまっている、辺野古の基地に着くと熱く込み上げてくるものがありました。戦争体験者ではありませんが「さとうきび畑」という歌の、ざわわ、という響きやウチナーグチの歌詞に重ね合わせてみることができます。
自分が辺野古に唐突に行った意味はもしかしたらあまり伝わらないのかもしれません。沖縄のひとの思いとも全く違うのかもしれません。
ただ、わたしはこの国が、私たちの暮らしが、薄っぺらな政治家や権力者の手によって踏みにじられ、踏みにじられることに無感覚になっていくことが耐えられません。


(写真は、辺野古のキャンプシュワブではなく近所の厚木基地です。)

さとうきび畑 寺島尚彦
ざわわ ざわわ ざわわ 広いサトウキビ畑は
(ひるさる をぅーじばたきや)
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ
(かじが とぅぃぬきぃる びけぇじ)
今日もみわたすかぎりに 緑の波がうねる 夏の陽射しのなかで
(ちゅぅんみぃゆるかじり  みどぅりぬなみがもぉいん(舞う)なちぬふみちぬなぁかぁんじ)
ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
(ひるさる をぅーじばたきや)
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ
(かじが とぅぃぬきぃる びけぇじ)
むかし海の向こうから いくさがやってきた 夏の陽射しのなかで
(んかし海ぬかぁま(彼方)から いくさがゆしてぃちっい なちぬふみちぬなぁかぁんじ)
 
ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
(ひるさる をぅーじばたきや)
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ
(かじが とぅぃぬきぃる びけぇじ)
あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 夏の陽射しのなかで
(あぬひぃかんぼぉぅ(艦砲)ぬあみ(雨)んかい すぃ(父)やうちゅくゎぁってぃ なちぬふみちぬなぁかぁんじ)
ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
(ひるさる をぅーじばたきや)
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ
(かじが とぅぃぬきぃる びけぇじ)

2017年6月9日金曜日

キャンプシュワブゲート前

先日、何か自分の中で、いてもたってもいられず、弾丸で辺野古へ行きトンボ帰り。
辺野古の集落は、ベトナム戦争の時代からの残像が残る。沖縄北部集落の過疎化や地域だけでは解決しがたい中央の様々な事情によってねじ曲げられた経過を静かな海を前に感じます。そしてその海も今、中央の勝手な事情で改変されようとしている。
沖縄の人、おじいやおばあの活動はただ基地がどうしたということだけではないのだろうと実感してきました。
キャンプシュワブゲート前に行って、少額ながら活動寄付させてもらってきました。工事車両の入場口はアルソックが通常警備、工事車両の出入りの時に警察が工事車両警備に来ているようです。座り込み抗議の方々は、水曜日が毎週の活動の中心で、常時毎日何人かの方がゲート前に詰めておられます。行くと丁寧に説明くださいました。
そして、数日後、お礼のハガキを丁寧に頂いた。(2017年6月9日 田賀記)

辺野古集落風景

辺野古集落すぐ横のキャンプシュワブゲート前

座り込みの方々から頂いたハガキ



2017年4月1日土曜日

「埋没35分後の生存率はわずか7%」

「埋没35分後の生存率はわずか7%」

今回、雪崩発生後の本部への通報が40分後だったと言われている。「埋没35分後の生存率はわずか7%」この冬山の知見が事実で、冬山登山についての一般的な知識だとすると、そして仮に「絶対雪崩が起こらない場所」であったとしても、「冬山の安全指導」という観点からも、指導者は、少なくとも35分以内に救助を要請し救助活動が行える体制を整えておく必要があった。そのような体制で訓練を行っていることを受講者に指導することも、指導の一環でなければならなかっただろう。
引率者は、雪崩に対して無知であったか、自分たちの活動において雪崩を想定していなかったか、ということになってしまう。登山とはある意味わざわざ危険なところに行くようなものとも言えるし、熟練した登山家や山岳写真家があえなく命を落とすこともある。現場の状況判断が(外野が四の五の言う以上に)結果がどうあれ重視せざるおえないこともありうる。
しかし、今回の件は訓練指導であるという点からこのことを考える必要があるし、学ばなければならないことがある。亡くなられた方々のご冥福を祈りつつ。

 「ビーコンを持った人は、平均埋没時間を170分から20分に短縮でき、死亡率は78.9%から50.4%に低下したと報告されています。近年ビーコンの技術開発が進み、使用法を学べる機会が増えたことで、一般登山愛好家でも活用できるようになりました。
 冬山はとても魅力的ですが、同時にリスクが潜んでいます。雪崩に遭遇しないのが一番ですが、いざ巻き込まれた場合、少しでも助かるように装備をそろえ、人を助ける知識と技術を身に着けて山に入りましょう。(大城氏の記事本文より)」


以下記事。

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4分の3以上が窒息死−−雪崩埋没者への応急処置と予防法!
2016年2月29日 大城和恵 / 北海道大野記念病院医師/国際山岳医

http://mainichi.jp/premier/health/articles/20160224/med/00m/010/005000c

 今回は、雪崩に遭遇した場合の医療的側面をお話ししていきます。早速ですが、皆さんは雪崩による死因は何が一番多いと思われますか? 雪に埋まるわけですから、「低体温症」を挙げる人が多いかもしれません。しかし欧州、および北米での統計では、雪崩埋没時の死因は、窒息が全体の75〜94.6%を占め、次は外傷死で5.4〜23.5%。低体温症による死亡は1%程度と報告されています。

埋没35分後の生存率はわずか7%

 実際に雪崩に遭遇した友人の話を聞くと、「流され始めたら、どんどん口や鼻に雪が入ってくる!」「気を失っていて目が覚めたら口の中に雪があって息ができなかった!」と言います。

 雪崩で埋没してしまった人の生存率のグラフを描くと、時間とともに直線的に下がるのでなく、埋まってから35分後までに、急速に低下するのが特徴です。これは、ごく短時間で命を奪われる急性の窒息の例が多いこと、またそれを免れても顔のまわりが雪で囲まれてしまい、呼吸をする空気のスペース(エアポケット)がなくなって窒息して亡くなる人が多いためです。

 つまり埋没した人の生存率は、時間に大きく左右されることがわかります。2001年、欧州の研究者は埋没35分後の生存率を34%と発表しました。これでも厳しい数字ですが、11年に発表されたカナダでの生存率は35分後に7%、という衝撃のデータでした。

最大4分の1は外傷死

 雪崩は数トンもの硬く巨大な雪のブロックが流れ落ちてくるものです。その速度は時速数十〜200kmにも達し、自分もそれと一緒に流されます。解けては凍り、踏みつぶされて固まった氷の塊、と言った方がイメージしやすく実態にも近いでしょう。雪崩に巻き込まれると、この氷の塊がぶつかってきたり、樹木にたたきつけられたり、さらに塊の下敷きになったりするわけですから、大きな外傷を受ける可能性が高くなります。

 最近の報告では、雪の密度が高く、湿って固まりやすい沿岸部での雪崩では、密度の低いサラサラの雪が積もる内陸部の雪崩より死亡率が高くなる、とされています。雪の密度が高い方が窒息と外傷の発生率を高めるからです。このことを考慮すると、沿岸部、内陸部という地域差だけでなく、季節によっても雪の性質には違いがありますので、死亡率は変わってくるのかもしれません。

低体温症死はわずか1%

 窒息、外傷によって急激に起きる死亡に対し、低体温症死はもう少し時間がかかって進みます。雪崩に埋もれた人は、窒息と外傷を免れても確実に体温の低下が進んでいきます。人の体温低下は最速で1時間に9度低下する、と過去の事例から報告されています。低体温症が著しく進行し、救出が遅れた場合は死に至ります。しかし低体温症が速く進行したが故に、体の酸素消費量が減り、雪の中に残された窒息ギリギリのわずかな酸素で生きながらえた事例もあります。
実際の応急処置 雪から掘り出された人にすべきこと

1.気道確保
 次に、雪崩の現場に居合わせた場合の応急処置法を考えましょう。窒息が死因の4分の3を占めるということで、雪の中から掘り出した要救助者にまず行う気道確保とは、まず口や鼻の中の雪を取り除くことです。次に、胸が重い雪の塊で圧迫されていると呼吸できないので、胸の上の雪も取り除きます。

2.人工呼吸+胸骨圧迫
 そして、直ちに人工呼吸と胸骨圧迫(心臓マッサージ)の心肺蘇生処置を行います。必ず現場で開始してください。掘り出した人に心肺蘇生を行わず病院に運んだ場合、助かる確率は非常に低くなります。

 アメリカ心臓協会(AHA)などによって作成されているガイドラインは、10年版で「突然意識を失った人に対しては、人工呼吸より優先して胸骨圧迫を行う」と内容を改定しました。特に、心肺蘇生法に習熟していない一般の人は、人工呼吸は行わず、「できるだけ中断せずに胸骨圧迫を続けるべし」としています。これはとても実践的で、医療資格のない人でも、道具がなくても、迷わず始められる素晴らしい方法です。しかしこの方法は「窒息をしていない人に行う」というただし書きがあるのです。

 雪崩で埋没した人は、少なからず呼吸のできない時間があり、窒息した、あるいは窒息しかかっている人です。こういう場合は、必ず胸骨圧迫と同時に人工呼吸をします。酸素を吹き込んであげなければ、蘇生は非常に困難です。

 「マウス・ツー・マウスは、病気がうつるかもしれないのに、してもいいのですか?」と思った人、いますよね。はい、こういう緊急時には、感染防護のためのビニール素材のシールドやポケットマスクなどは準備ができないことがほとんどでしょう。分刻みで生存率が下がるのに、その道具を探していたら、蘇生のタイミングを逸するかもしれません。

 これまで、直接口を接触させたマウス・ツー・マウスで、B型肝炎、C型肝炎、HIVに感染した報告はありません。10年のAHAガイドライン、国際山岳救助協議会の勧告でも、緊急時に感染防護具を使用しないことは許容し得る、としています。

 「酸素ボンベがなくても大丈夫ですか?」。はい、大丈夫です。私たちの吐く息には酸素が14〜17%程度含まれています。

3.外傷の有無の確認

 次に、けががないか確認しましょう。出血があれば圧迫して止血をはかります。外からは判断できないけががありそうな場合は、できるだけ体をまっすぐ水平にしておくとよいでしょう。

4.低体温症対策
 低体温症は死因としては1%と低いですが、程度の差はあれ、潜在していたり進行していたりしますので、その対応を行います。その詳細は当連載の「低体温症」の項を参考にしてください。

心肺蘇生を行うケース、行わないケース
 まず、掘り出した際に体が切断されている、胸が凍り付いてしまって胸骨圧迫ができない場合などは、心肺蘇生の保留は認められます。救助隊に引き継ぐことがよいでしょう。

 「埋没後35分で生存率が下がる」という知識が広まったことや、事故現場は非常にストレスフルなため、心肺蘇生の開始が適切に行われていない、という報告も専門家の間ではなされています。

 「発生から35分過ぎてしまった人には、心肺蘇生を行わなくてもいいのですか?」。いいえ。35分が経過しても生存していた人はいます。特に、口や鼻が雪で塞がれていない人(気道閉塞〈へいそく〉が起きなかった人)は、1時間以上の埋没でも生存していた例があります。中でも低体温症を合併した場合、エアポケットが大きかった場合は、生存の可能性が上がります。

「致命的外傷がある」「胸が凍って硬い」なら、心肺蘇生は保留
 ですから現場では「致命的外傷がある」「胸が凍って硬い」以外は、心肺蘇生を開始しましょう。現場が安全なら20分は続けましょう。救助隊に引き継ぐ場合は、できるだけ心肺蘇生の中断を短くして継続して到着を待ちましょう。再び雪崩が起きる危険がある場合など、すぐに現場から退避せねばならない状況では、退避が遅れないようにしつつ、その合間や退避後にできる範囲で心肺蘇生を続けましょう。

雪崩に遭遇したら〜まとめ

 雪崩に遭遇した場合の救助手順をまとめます。

○救助要請
○自分の安全の確保
1.要救助者を掘り起こし、気道確保(口や鼻の雪を除去する)
2.人工呼吸+胸骨圧迫
3.外傷の確認
4.低体温症対策
救命率を高める装備
 雪崩に遭った際の救助率を高める装備として、専用のエアバッグや埋没位置を仲間に知らせるビーコンがあります。これは前回も紹介しました。エアバッグの使用により完全埋没の割合が47%から13%に、死亡率が35.3%から1.3%に低下したという報告がありました。しかし最近はエアバッグを過信し、より過酷な環境に挑む例が増えて救命率は低下しているようです。
 ビーコンを持った人は、平均埋没時間を170分から20分に短縮でき、死亡率は78.9%から50.4%に低下したと報告されています。近年ビーコンの技術開発が進み、使用法を学べる機会が増えたことで、一般登山愛好家でも活用できるようになりました。
 冬山はとても魅力的ですが、同時にリスクが潜んでいます。雪崩に遭遇しないのが一番ですが、いざ巻き込まれた場合、少しでも助かるように装備をそろえ、人を助ける知識と技術を身に着けて山に入りましょう。

大城和恵
北海道大野記念病院医師/国際山岳医
おおしろ・かずえ 1967年長野県生まれ。医学博士、山岳医療修士。日本大学医学部卒業後、循環器内科医として約10年間の付属病院勤務を経て、「山での遭難者を助けたい」という思いを募らせて本格的に山岳医療の勉強を始める。98年、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロ(5895m)に登頂。心臓血管センター大野病院(現・北海道大野記念病院)を拠点に診療を続けるが、09年に退職し渡英。1年をかけて日本人として初めて「UIAA(国際山岳連盟)/ICAR(国際山岳救助協議会)/ISMM(国際登山医学会)認定国際山岳医」の資格を取得した。現在は同病院の循環器内科・内科および登山外来で勤務するかたわら、北海道警察山岳遭難救助隊のアドバイザーも務める。遭難実態を知り、現在遭難しないための医療情報、心臓死の予防、高所登山のアドバイス、ファーストエイド技術の講習会主宰など、山と登山に関する多方面で活躍する。13年には三浦雄一郎さんのエベレスト遠征隊にチームドクターとして参加した。自身もマッキンリー、マッターホルン、マナスル(世界第8位)登頂など海外を含む豊富な登山歴を持つ。

2017年1月17日火曜日

明暦の大火から上山まで話をただ繋げてみた。

江戸城の天守閣は明暦の大火(明暦3年1657年)で焼け落ち、経済性と戦のない時代の機能不要性という理由から再建されなかったというけれど、本当でしょうか?

現に新井白石らによって天守閣の計画図までは作られたというし、実際に天守閣の石積基礎まではつくられ現存しています。

江戸時代よりも機能、経済重視とされる現代でさえ、超高層ビルやら東京タワーなどのテレビ塔など、機能に託けながらも象徴的な建設がなされたりします。ましてや封建社会の真っ只中、天守閣といわないまでも、それに類する象徴が本来は必要とされたりするのではないでしょうか?

しかし、この天守閣を建設せず、という重大な決定を行ったのが、二代将軍秀忠の四男として生まれ、武田信玄の家臣信濃高遠藩主保科正光の子として育てられた保科正之であったといいます。

秀忠死後、三代将軍となった家光はこの異母兄弟の存在を知らされて殊の外可愛がったそうです。その後、保科正之は出羽山形藩を拝領、ついで陸奥会津藩主となり松平姓を賜り大名となり、家光の死後、四代家綱の補佐役となりました。

ところで会津に伺い、蕎麦を頂く機会があれば、必ず高遠蕎麦を目にします

高遠蕎麦とは、高遠由来の辛味大根のことで、この辛味大根のやや甘みと辛味のある大根汁に醤油を垂らして、これを汁として食べる蕎麦のことです。信濃高遠藩からやってきた殿様(保科正之)が、蕎麦を食べるときに「これたかとうをもて」と言い、以来蕎麦には、この辛味大根汁が付け合わせられることになったのが由来だといいます。正之は、四代家綱以降、江戸詰がほとんどであったそうですが、後期の会津藩政の基礎を築いたといわれています。

育ての親への忠義から保科正之は松平姓を固辞したという話からは、その人柄がうかがえます。日本初の老齢年金制度を実施したといわれ、江戸城天守閣不要とし城下町の復興を主眼にした政策実行と共通する姿勢がうかがえます。

保科正之が入部するまでの会津藩は秀吉時代に蒲生氏郷が入部し、その嫡子蒲生秀行時代に関ヶ原の戦いで東軍につき功績を挙げ、また家康の三女(振姫)正清院が秀行の正室だったこともあり優遇されたといいます。

その後、秀行と振姫(正清院)の間に生まれた長男忠郷が会津藩主となり、次男忠知が出羽上山藩主となりました。忠郷が早世し蒲生家が断絶となるところ、弟忠知が家督を継ぐことを許され、伊予松山藩に減封されることとなりました。

蒲生家が退いた後の会津藩は、松山から入れ替わり加藤嘉明が入部、二代目で改易され、保科正之が入部することとなりました。

一方、次男忠知の居た上山藩は、その後、土岐氏、金森氏と藩主が安定しませんでしたが、江戸中期に松平信通が移封して藩主がようやく安定しました。

上山までなんとか無理矢理話を繋げてみました。。。。