コシヒカリなのか、風で倒れた稲穂を収穫するのは面倒だろうなと思うと、そうでもないと言う農家もいる。倒れ具合にもよるのでしょうが、美味しい米を食べさせてもらえると思えば、どちらにしてもありがたいことだと、喜多方の田園を横目に通り過ぎる夕暮れに稲穂は赤く葉は黄金色に。
2025年11月7日金曜日
2025年9月28日日曜日
山地の日常的な生活、夕顔
本日終了(2025年9月28日)の米沢で開催されたミナミハラアートウォークにS&T(ギャラリスト上村氏の主催するギャラリー)を通じて出品させていただいた立体作品「日常的な生活、夕顔」。
ミナミハラアートウォークにご来場いただいた方は、一足先にご覧いただいているものですが、土台の部分も含めて杉の廃材で削り出し、オニグルミのインクで着彩し、ワトコオイルをコートしたものです。防腐剤などは使っていないので、ゆっくりですが少しずつ経年変化が想定されています。
山中の村で制作作業をしていると村の近所の人が農作物を持ってきてくれます。自分の作業しているものよりも余程美しいなと思えたりするところがあって、そのままその美しいところをしばらくの間、定着させたいと思うと、それまでの作業を止めて、農作物の美しいと思ったところを削り出していきます。
どの農作物の削り出しも実寸大ですが、良いなと思えたところを捉えられた時点で作業を止めるので、完全にリアルなものとして再現するわけではありません。着色も含めて捉えた時点で蜜蝋かワトコオイルを塗り完成させる、と言った具合です。
農作物も少しずつ乾燥したり変化していくのでナルハヤで作業します。
山地の雪が溶けてようやく村人が思い思いの作付けが出来る様になり収穫出来る時期は夏の一時期で、そのあと秋口には大根、はくさいぐらいの収穫になり、冬支度になるので、ある種の収穫と生の喜びに近いものが農作物に宿っているように思えたりするところが、美しいな、というところなのかもしれません。 夕顔は一般的なスーパーなどでは見かけません。
実際、大きくてわざわざ購入して持っていくのも、調理の汎用性を考えても、ちょっと躊躇します。が、その大きさや重みに気持ちが上がります。持ってきてくれた人も嬉しそうに面白そうに持ってきて、大きさや重さを話題にして、話がはずむところを同じ様にこの制作物から感じてもらえればと思ったりしたのでした。
2023年4月8日土曜日
梅林と海軍道路の桜並木
【樹林形成・緑地】
横浜市の西、大和市との境あたりに「海軍道路」と呼ばれる道がある。
桜の街路樹が延々と続く道。あたりには建物らしい建物がほとんどない、首都圏近郊では珍しい場所。サクラの並木が広大な原っぱに続いているが、子供の頃と比べると並木が片側だけの区間になったり、幹線道路からの入口付近は道路拡幅や道路線形の変更が行われ並木そのものがなくなってしまったり、ソメイヨシノは管理が大変ということで伐採されて歯抜けになっているところも目立ち、徐々に桜並木の景色が失われてきている。県や市はどうやらこの桜並木を残す気は無いらしい。
明治神宮の森が今、開発の波に晒されているように、このあたりも開発の計画があるようで、開発が進めば、この桜並木もいずれなくなってしまうのだろう。
海軍道路とは
旧日本海軍の弾薬庫だった場所の敷地内道路だった。
桜並木は戦後のものではないだろうか。まだ調べていないのでわからない。
戦後、弾薬庫は進駐軍に接収され、つい最近まで米軍の通信基地となっていたが、
衛星による通信が発達しその役目が終わり、日本に返還された。こうした米軍の土地は沖縄県に次いで神奈川県が多い。私の家の近くでは厚木飛行場や座間ベースなどがある。
自分は米軍になってからの海軍道路しか知らなかったので、米軍の海軍の道ということかと思っていたが、日本の海軍の道だった。
首都圏近郊になる広大な緑地は概ね240ヘクタールほどあるという。
貴重な緑地がこれから開発の憂き目に合うという事なのだが、2023年現在の日本の景気状況では目処が立たず、あまり開発は進んでいないようである。
戦前は海軍の弾薬庫、戦後すぐには軍から地元の農家に払い下げられたが、その後進駐軍に接収されてしまった。この接収されるまでの間は戦後動乱の食糧難の時期で、払い下げられた土地は畑となり食糧生産の現場となっていたという。
その後、通信基地の規模が縮小され1ヘクタールに満たない大きさで地元農家に払い下げられたらしい。それで親の代で梅林にしたのだとここで出会った農作業をしている地元の年配の方に伺った。結局、地元の地権者は時代に翻弄されて2度土地を買わされているみたいな事になって、そして今、開発するとかなんとかで、買い上げが進められているらしいのだが、それで明け渡す際に、梅林を撤去しなければならないらしく、一部伐採したものの、不景気のためか、現在(2023年4月現在)明け渡しが伸びてしまっているそうだ。
目につくのはバックホウで造成のようなことをしている場所。もう開発の造成が入っている場所もあるのかと思ったら、都心のトンネル工事などで排出された土の置き場になっているということだった。
野良仕事をしていた老人は、土地が時代に翻弄されてきたことを経験した為か、こういう時は波に飲まれてあらぬ事になってしまうから静かにしているのが一番良い、と言っていた。
権力や世界の情勢に付き合わされて跳ね飛ばされていく人がいたのを見てきたのだろう。
梅林)
彼の農地には梅林が植えられていて、3つに区分されている。一つは草刈も剪定も漁れている管理された梅林、そして全く管理をしていない枝が密集し地面も草刈されていない梅林、そしてその合間にある畑。畑の合間には梅の根株が残っていたりしているので、最近まで全体的に梅林だったことが伺える。
先に書いた通り、梅林を処分してくれと言われて、処分し初めたのだが、結局まだ引き取ってくれないので、ネギなどを植えて畑にしているとのことだった。管理している梅林は欲しいという人がいるのでやっているらしく、管理していない梅林は売れもしないし、管理も大変なのでそのままという状態だということだった。
人の暮らしも社会に惑わされていくが、身動きの取れない植物は人の都合で植えられたり切られたりと、身勝手な人間に難儀している。それでも息吸うことすら人の生存に不可欠な植物たちは、人間の身勝手な活動をゆっくりと見守り、文明が止まれば自然の力として覆い被さってくる。だから、気にすることもないと言えば無いのだが、どちらかといえば人間にとって良好な暮らしには、植物との調和的な暮らしや個人、公共に関わらずもっと多くの適正な緑地を確保し良好な景観形成していくことが必要に思う。むしろ植物のためではなく、人間のために植物との調和的な環境が必要なのでは無いだろうか。
(文章がまとまっていないようにも感じるが、メモ書きとして、20230408田賀)
管理された梅林
梅林を伐採して畑となった場所。
切り倒した梅の幹が転がっていた。
2014年9月28日日曜日
2014年度 奥会津銀山街道美女峠道普請作業(福島県大沼郡三島町間方付近、2014.09.09)
奥会津銀山街道は会津若松市内から南会津只見町小林に続く72キロメートルに及ぶ道です。近世から明治にかけては、柳津町にある軽井沢銀山を中心に往来があり、また奥会津地方を会津若松へ最短で結ぶ道として活用されていた。
明治29年(1896年)に銀山は閉山するとともに往来は衰微したが、それでも山間の暮らしの重要な道であった。
太平洋戦争後、戦後の只見川流域の電源開発に関連して只見川沿いの道路が整備され山間の道は廃れていったのであった。
今にして考えれば、もし山間の往来が続き、道が近代化されていれば生活の利便性は高まったのもの、今残されている地域の自然とその関わりは薄れたであろうし、景観の豊かさは失われていただろう。かといって社会全体の過疎化は道路の利便性だけでは食い止められなかったのではないだろうか。
今、山間の暮らしは住みづらく不便なもののように思える。しかし、何よりも残された山間の原資は、都市生活とは替えがたい価値がある事も事実である。これまでの高度成長的な価値観から離れて、山間の暮らしを新たな価値観で見つめ直し、伝統的な自然との調和的な暮らしに学び、現代の都市的な暮らしの快適さを節度をもって取り入れながら、未来へ繋がる新たな自然との調和的な地域生活を形成していくことが求められている。
目の前の小さな自然に目を凝らし、自分の暮らしとそれがどう関わり合っているのだろうかと、想像を膨らまし、それをゆくりと丹念に写し取り描き出してみる事である。表現する事は芸術家やデザイナーの特権ではない。生活者それぞれがもっている生きる礎となる不可欠な行動原理なのだ。
私的に言えば個々の人間の「生きる」は、「生産」という言葉に置き換えられる。厳密に言えば「生産と消費の連続性」でなのだが、
振り返って、一般に言われる「生産」とはどういうことなのだろうか。個々の暮らしの質に関わる人間の尺度(ヒューマンスケール)の生産を、現代人はどれだけ行なっているだろうか。
そう言う意味で今、その人の自分の目の前にある暮らしの質に関わる「生産」と言うものは、農家や職人と呼ばれる人々の手仕事の手の内に残されているものの、農家や職人の存在は今や現代日本において斜陽な存在となってしまっている。
苦しくとも生きる実感を与えてくれる暮らしの「生産」は、その苦しさから逃れたいという気持ちを利用され、大量生産のなかでの「労働」というものに置き換えられている。そして、多くの現代人は「生産」という権利を失い、給料をもらい、大量生産大量消費の社会性のなかで「消費」のために生かされる存在になり、一人一人の暮らしの質はそのなかで打ち捨てられていった。
そして今や、拡大再生産の原理に支えられた大量生産の時代は終焉を迎えつつある。
これから我々は、量産の時代から離れて、もう一度適正な規模の人の暮らしをつくっていく必要がある。その知恵は伝統的な地域の暮らしのなかに、そして地域周辺の自然のなかに眠っている。
我々はそれを掘り起こす作業から丹念にはじめなければならない。丹念に観察し、考察し、少しずつその暮らしのあり方を改善していく。それが我々が我々本来の人間の適正な尺度の暮らしを獲得するための最短の道のりなのだとおもう。
この銀山街道に沿って多くの山間の小さな集落の存在がある。そうした集落の存在は今や空前の灯火といった風にみえるが、そこで暮らし続ける人たちの明らかな実体があり、その存在の有様をしっかりと認める事は大事なことである。それは量産時代に打ち捨てた人々の心の襞や生活の質を取り戻すための人の意識の再確認である。
山間に暮らす人々のほとんどは高齢者ではあるが、都会生活を満喫する多くの人々と比べて、暮らしの不便さがあるにも関わらず、ある種の精神的な自由度があるように思える事がある。
この「精神的な自由度」ということについて、もう少し場を改めて述べてみたいと思うが、目の前の小さな自然と向き合う小さな地域の小さな集落の暮らしがあって、その小さな集落の暮らしと繋がる小さな人の関わりがあって、人の関わりは町や都市の隙間に暮らす人々にも繋がっているはずである。人間尺度(ヒューマンスケール)の実際的な結びつきを少しずつつくっていかなければ、日本人の暮らしの自由は獲得できないのではないだろうか。古い道や棚田の景色には、いにしえの先人が獲得して来た生きる事の礎があるように思える。
「ローマは一日にしてならず」というが、ローマじゃなくたって、一つの家庭すら一日にしてならず、なのは誰もが理解出来る自明な事であり、ましてやその外側ならなおさらなである。おごらず、侮らず、悲観せず、悲観的に観察考察し、楽観的に決断し、地道に実行する。
現実的に言えば、貨幣経済の経済活動との連携について考えていく事も非常に大事な事である。しかし、山の暮らしに銭が役に立つのかというと、極端に行ってしまえばチェーンソーや車のガソリン代を除けば、ほぼ皆無である。人の力が如何程のものか、自然に対してかなりか弱いところもあるが、現代人が思うよりも人の力と知恵は計り知れないところもある。かといってなければ大いに困るのであるから、どちらも知ってその適正バランスを考える必要がある。我々は道普請を通して、その地域に関わり、古い伝統的な暮らしの作法に学びながら、その地域で暮らすことの意味を丹念に導きだすことが出来ればと思う。
銀山街道道普請の実施にあたって、東北芸術工科大学建築・環境デザイン学科田賀研究室および田賀意匠事務所が計画、施工に関するアドバイスをさせて頂いている。計画、施工というハード面にとどまらず、地域の方々との交流や地域の民俗、歴史、地理的な調査、銀山街道ウォーキングトレイルに関する作業を地元のNPOワクワク奥会津ドットコム、若松測量設計株式会社、会津若松建設事務所と連携しながら行なっている。
作業終了後、間方地区の方々が慰労会を開いてくださった。
今回は道普請だけでなく、翌日の美女峠ウォーキングトレイルもあり、参加者も多数で、盛大に地元の方々にもてなして頂いた。
この地区に伝わる「高姫」の紙芝居を地元の菅家壽一氏が披露してくださった。美女峠には「高姫清水」という湧き水をはじめ、高姫にまつわる場所が色々とある。
大人達に紙芝居と言うのも一風変わった催しであったが、はなしは和歌に詠まれて続き、その情緒と地元の酒とともに大いに盛り上がったのでした。
我々、東北芸術工科大学田賀研究室の面々は、翌日はウォーキングトレイルではなく、ルートの踏査という作業があり、宿泊地に戻ってミーティングをしてその日を終えた。
また、今回の美女峠踏査およびウォーキングトレイルについては別途お伝えする事としたい。
参考:
http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/32632.pdf
明治29年(1896年)に銀山は閉山するとともに往来は衰微したが、それでも山間の暮らしの重要な道であった。
間方地区から美女峠へ向かう道
(銀山街道・福島県大沼郡三島町間方)
太平洋戦争後、戦後の只見川流域の電源開発に関連して只見川沿いの道路が整備され山間の道は廃れていったのであった。
今にして考えれば、もし山間の往来が続き、道が近代化されていれば生活の利便性は高まったのもの、今残されている地域の自然とその関わりは薄れたであろうし、景観の豊かさは失われていただろう。かといって社会全体の過疎化は道路の利便性だけでは食い止められなかったのではないだろうか。
道普請に集まった人々
地域の人々と県職員、東北芸術工科大学田賀研究室有志学生の面々
そして、今回の美女峠の道普請には福島県に震災以降応援で配属さ
れている東京、島根、岐阜、沖縄等の県庁職員が参加した。
今、山間の暮らしは住みづらく不便なもののように思える。しかし、何よりも残された山間の原資は、都市生活とは替えがたい価値がある事も事実である。これまでの高度成長的な価値観から離れて、山間の暮らしを新たな価値観で見つめ直し、伝統的な自然との調和的な暮らしに学び、現代の都市的な暮らしの快適さを節度をもって取り入れながら、未来へ繋がる新たな自然との調和的な地域生活を形成していくことが求められている。
目の前の小さな自然に目を凝らし、自分の暮らしとそれがどう関わり合っているのだろうかと、想像を膨らまし、それをゆくりと丹念に写し取り描き出してみる事である。表現する事は芸術家やデザイナーの特権ではない。生活者それぞれがもっている生きる礎となる不可欠な行動原理なのだ。
今回はぬかるんだ所で山からの水が集まってくる場所を中心に
3カ所に山側に土側溝を形成し、それぞれに横断側溝を設置した。
私的に言えば個々の人間の「生きる」は、「生産」という言葉に置き換えられる。厳密に言えば「生産と消費の連続性」でなのだが、
振り返って、一般に言われる「生産」とはどういうことなのだろうか。個々の暮らしの質に関わる人間の尺度(ヒューマンスケール)の生産を、現代人はどれだけ行なっているだろうか。
そう言う意味で今、その人の自分の目の前にある暮らしの質に関わる「生産」と言うものは、農家や職人と呼ばれる人々の手仕事の手の内に残されているものの、農家や職人の存在は今や現代日本において斜陽な存在となってしまっている。
苦しくとも生きる実感を与えてくれる暮らしの「生産」は、その苦しさから逃れたいという気持ちを利用され、大量生産のなかでの「労働」というものに置き換えられている。そして、多くの現代人は「生産」という権利を失い、給料をもらい、大量生産大量消費の社会性のなかで「消費」のために生かされる存在になり、一人一人の暮らしの質はそのなかで打ち捨てられていった。
昼食は地元の食材を使った弁当が用意された。
そして今や、拡大再生産の原理に支えられた大量生産の時代は終焉を迎えつつある。
これから我々は、量産の時代から離れて、もう一度適正な規模の人の暮らしをつくっていく必要がある。その知恵は伝統的な地域の暮らしのなかに、そして地域周辺の自然のなかに眠っている。
我々はそれを掘り起こす作業から丹念にはじめなければならない。丹念に観察し、考察し、少しずつその暮らしのあり方を改善していく。それが我々が我々本来の人間の適正な尺度の暮らしを獲得するための最短の道のりなのだとおもう。
横断側溝の形成。横断部分を掘り、水の経路を確保する。水経路の脇を県産材の
丸太で土留めして、現場発生した土を入れた土嚢を敷き詰めて床固めする。
水経路の土嚢袋は自然にかえる麻などの自然素材のものがベストだが、今回は一
般的に工事で利用されている土嚢袋を使用した。また、本来は砕石敷にして水路
の床固めを行なうのが標準的な工法としているが、車の入れない場所では現場の
土を使って整備をおこなう。運搬労力を考えれば、資材は現地調達が原則的に効
率がよく、このような排水施設を設置する事よりも、管理の仕組みをしっかりと
もち、継続的に現場での維持管理が出来るようにしていく事がもっとも望ましい
いずれ、管理を続けていくうちに改良されていくことでしょう。
この銀山街道に沿って多くの山間の小さな集落の存在がある。そうした集落の存在は今や空前の灯火といった風にみえるが、そこで暮らし続ける人たちの明らかな実体があり、その存在の有様をしっかりと認める事は大事なことである。それは量産時代に打ち捨てた人々の心の襞や生活の質を取り戻すための人の意識の再確認である。
山間に暮らす人々のほとんどは高齢者ではあるが、都会生活を満喫する多くの人々と比べて、暮らしの不便さがあるにも関わらず、ある種の精神的な自由度があるように思える事がある。
この「精神的な自由度」ということについて、もう少し場を改めて述べてみたいと思うが、目の前の小さな自然と向き合う小さな地域の小さな集落の暮らしがあって、その小さな集落の暮らしと繋がる小さな人の関わりがあって、人の関わりは町や都市の隙間に暮らす人々にも繋がっているはずである。人間尺度(ヒューマンスケール)の実際的な結びつきを少しずつつくっていかなければ、日本人の暮らしの自由は獲得できないのではないだろうか。古い道や棚田の景色には、いにしえの先人が獲得して来た生きる事の礎があるように思える。
「ローマは一日にしてならず」というが、ローマじゃなくたって、一つの家庭すら一日にしてならず、なのは誰もが理解出来る自明な事であり、ましてやその外側ならなおさらなである。おごらず、侮らず、悲観せず、悲観的に観察考察し、楽観的に決断し、地道に実行する。
地元の方が資材搬送のために使用している背当ての使い方を教えてくれた。
地元の野山で採取出来るヒロロという植物を素材にしてつくられたものである。
藁で出来た背当てを見た事があるが、ヒロロでつくられたものは丈夫だという。
これがヒロロ。日本名はミヤマカンスゲ。大量に群生しているわけではなく
ひとつの背当てやミノをつくるにはかなりの量が必要である。
際の部分には布があてられて編み込まれているが、これは飾りではなく
ヒロロの端を保護する役目のもので、編み込まれたヒロロを長持ちさせる。
現実的に言えば、貨幣経済の経済活動との連携について考えていく事も非常に大事な事である。しかし、山の暮らしに銭が役に立つのかというと、極端に行ってしまえばチェーンソーや車のガソリン代を除けば、ほぼ皆無である。人の力が如何程のものか、自然に対してかなりか弱いところもあるが、現代人が思うよりも人の力と知恵は計り知れないところもある。かといってなければ大いに困るのであるから、どちらも知ってその適正バランスを考える必要がある。我々は道普請を通して、その地域に関わり、古い伝統的な暮らしの作法に学びながら、その地域で暮らすことの意味を丹念に導きだすことが出来ればと思う。
銀山街道道普請の実施にあたって、東北芸術工科大学建築・環境デザイン学科田賀研究室および田賀意匠事務所が計画、施工に関するアドバイスをさせて頂いている。計画、施工というハード面にとどまらず、地域の方々との交流や地域の民俗、歴史、地理的な調査、銀山街道ウォーキングトレイルに関する作業を地元のNPOワクワク奥会津ドットコム、若松測量設計株式会社、会津若松建設事務所と連携しながら行なっている。
予定の作業を無事終了した。一カ所はぬかるみが酷く排水経路を確保して、
少し乾いたところで再度土嚢を敷く事とした。
現場を離れ、アスファルト道路に出たところで、解散。
近くにはむかしは棚田だったワラビ畑が広がっていた。
ワラビ畑の向こうに見えるのはキリの木。
作業終了後、間方地区の方々が慰労会を開いてくださった。
今回は道普請だけでなく、翌日の美女峠ウォーキングトレイルもあり、参加者も多数で、盛大に地元の方々にもてなして頂いた。
この地区に伝わる「高姫」の紙芝居を地元の菅家壽一氏が披露してくださった。美女峠には「高姫清水」という湧き水をはじめ、高姫にまつわる場所が色々とある。
大人達に紙芝居と言うのも一風変わった催しであったが、はなしは和歌に詠まれて続き、その情緒と地元の酒とともに大いに盛り上がったのでした。
地元の公民館にて慰労会
沖縄県の職員の方の感想挨拶
もてなしの料理の説明を間方奥さんから
間方の蕎麦は一風変わっている。出汁は日本海から鰹節、
具材は大根と牛蒡のみ、麺はそば切りではなく、パスタ製麺機で製麺されたもの
かなりむかしに集落の誰かが持ち込んだそうだが、食感はかなりかわっている。
酒は清酒と濁り酒、地元には造り酒屋はないが地元の米を使いつくられている。
大根菜飯。大根菜は三島町でよくつくられているようだ。
「高姫清水」の伝説の紙芝居が披露された。
ゼンマイの煮物
コゴミの煮物
ワラビの煮物
翌日の美女峠ウォーキングに備えて、早々に一本締めで終了。泊まりは宮下温泉にて。
また、今回の美女峠踏査およびウォーキングトレイルについては別途お伝えする事としたい。
参考:
http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/32632.pdf
2010年11月10日水曜日
朝市のために(脇町)
脇町ではじめた朝市では、それぞれがつくってきた農作物を売るだけでなく、色々な人たちが集まってきて、情報交換をしたり、新しいことが学べたりと、楽しんで参加できるようなものにしていきたいと考えている。それは僕がそう思っているだけではなく、参加している個人の農家の人たちもそう感じているようだ。
考えてみれば、農業というのは毎日9時から5時までが仕事、月曜日から金曜日が仕事、と決まっているわけではない。春夏秋冬があり、時期によって日の当たる時間も、気温も違う。晴れの日があり、雨の日があり、風の日がある。それを自分で決めるわけにも行かず、それを色々やりくりしながら、農作物をつくっている。
仕事も、家事も、農作業も、休みや団欒も一緒になって色々組み合わせて成り立っている。ここからここまでと割り切ってできるものでもない。だから、生産も消費も、すべてが旨く組み合わさって、心地よく生活できることが大切なのだ。
朝市も、ただ売るだけ買うだけ、ではなくて、生活の行為として心地よくできることが大切だ。そうやって生活するために多少のお金も必要であるということに過ぎない。お金を稼ぐために、生活がつまらなくなってはいけないのだ。
経済的に成り立つことを勿論大切なので、真剣さもある。しかし、生きている事の大切さや、意味を失わないように、バランスを取りながら皆前向きにとりくんでいる。
写真は2月18日に、金垣さんのパン工房で、皆がつくった作物で、簡単な料理をつくり会食をしているところです。農業も都会で考えるよりはるかに近代化されてきています。良いこともありますが、コミュニティが薄れてきているところもあります。地域の現代生活にあった新しいコミュニティをつくっていったり、自分達の地域の環境を勉強出来る場が必要になっているように思えます。
そんななか、このように皆が楽しんでより集まってこれるような場や関係ができていく事はとても大切で貴重なことなのだと思います。
これまでにも、売り場に農作物を出す時の表示の仕方、お米の表示の仕方、新しい農作物の品種、自家採種についてなど、朝市の事前ミーティングを通して、話題に出たことを、食料事務所(現農政事務所)の職員や徳島県脇町農業改良普及センターの職員を招いて、勉強会などをしています。僕も会のスパーバイザーとして参加させてもらっています。考え方や企画を皆さんと一緒に考えて、まとめていくことが僕の役割です。集まっていらっしゃる皆さんから勉強させてもらう事も沢山あります。(2004.06.28記す)
後日、
朝市ではどんなものを売るのか、どうしたら良いものが提供できるのか、どうしたらもっと楽しくなるのか、皆で考えながらやっている。
バックアップしてくれている徳島県の農業改良普及センターの担当者が林さんから新しい方に変わった。近藤さん、多様化の時代、貿易自由化の時代によろしくお願いします(2004.07.06記す)。
(2004年5月28日撮影)
考えてみれば、農業というのは毎日9時から5時までが仕事、月曜日から金曜日が仕事、と決まっているわけではない。春夏秋冬があり、時期によって日の当たる時間も、気温も違う。晴れの日があり、雨の日があり、風の日がある。それを自分で決めるわけにも行かず、それを色々やりくりしながら、農作物をつくっている。
仕事も、家事も、農作業も、休みや団欒も一緒になって色々組み合わせて成り立っている。ここからここまでと割り切ってできるものでもない。だから、生産も消費も、すべてが旨く組み合わさって、心地よく生活できることが大切なのだ。
朝市も、ただ売るだけ買うだけ、ではなくて、生活の行為として心地よくできることが大切だ。そうやって生活するために多少のお金も必要であるということに過ぎない。お金を稼ぐために、生活がつまらなくなってはいけないのだ。
経済的に成り立つことを勿論大切なので、真剣さもある。しかし、生きている事の大切さや、意味を失わないように、バランスを取りながら皆前向きにとりくんでいる。
写真は2月18日に、金垣さんのパン工房で、皆がつくった作物で、簡単な料理をつくり会食をしているところです。農業も都会で考えるよりはるかに近代化されてきています。良いこともありますが、コミュニティが薄れてきているところもあります。地域の現代生活にあった新しいコミュニティをつくっていったり、自分達の地域の環境を勉強出来る場が必要になっているように思えます。
そんななか、このように皆が楽しんでより集まってこれるような場や関係ができていく事はとても大切で貴重なことなのだと思います。
これまでにも、売り場に農作物を出す時の表示の仕方、お米の表示の仕方、新しい農作物の品種、自家採種についてなど、朝市の事前ミーティングを通して、話題に出たことを、食料事務所(現農政事務所)の職員や徳島県脇町農業改良普及センターの職員を招いて、勉強会などをしています。僕も会のスパーバイザーとして参加させてもらっています。考え方や企画を皆さんと一緒に考えて、まとめていくことが僕の役割です。集まっていらっしゃる皆さんから勉強させてもらう事も沢山あります。(2004.06.28記す)
後日、
朝市ではどんなものを売るのか、どうしたら良いものが提供できるのか、どうしたらもっと楽しくなるのか、皆で考えながらやっている。
バックアップしてくれている徳島県の農業改良普及センターの担当者が林さんから新しい方に変わった。近藤さん、多様化の時代、貿易自由化の時代によろしくお願いします(2004.07.06記す)。
(2004年5月28日撮影)
2010年9月24日金曜日
徳島で出会った人々 / 再録(2004〜2005年)
2003年頃から2006年頃にかけて、徳島県の農家の方を中心に、様々な方のところへお邪魔した。その時の記録の一部を記事にしていた。もっとも印象が強いのは何と言っても一宇村の臼井の爺さんであることは間違いない。記事にはまだ出来ていないことが沢山あるが、簡単な紹介をすることで一応の記録とした。(2010.08.24記す)
以下、徳島で出会った人々の記事。
【徳島県一宇村 臼井さん 2005.03.13の記事】
自らを平家の末裔という。平家の落人文化の色濃い祖谷に近い徳島県一宇村。その深山標高1100m付近剣山系の山間にひとり暮らす臼木翁。
ここでつくられるジャガイモは、表面のうす赤く染まったものが採れ、アカイモと呼ばれる。同じ種芋を使っても低地部ではアカイモにならない。標高や気候と土の条件によって形作られる農作物、ほとんど農薬を使わずジャガイモが育つ。そして寒さに耐えて味の濃く甘みのあるイモができる。
車ではたどり着く事のできないその農地は、自然の山並に囲まれた、緩斜面につくられた自然の畑である。
翁の写真は友人のアイスランド人映画監督ギスリ・スナイル・エリンソンと一宇村を訪れた時に彼が撮影したもの。
【徳島県脇町 竹中さん 2005.03.13の記事】
久しく1月の終わりに徳島へ出かけた折、藤原さんの農地を見せてもらいにいった。
藤原さんの奥さんはいつも朝市にたくさんの野菜を並べてくれている。
藤原さんはニンジンを中心に育てている専業農家である。それ以外に、奥さんがご主人の仕事の手伝いの合間に野菜づくりをやっている。今回はその奥さんが手掛ける畑を拝見させてもらった。
【徳島県脇町 竹中さん 2004.12.07の記事】
10月は脇町の竹中さんの農地を観にいった。人から借りている水田も含めて六町(だいたい6ha、つまり6万平米)ほどの水田とそれ以外に畑をいろいろやっている。人から借り受けた所もあれば地所もある。伺った時には白菜の苗が植わっていた。竹中さんがきれいにつくった白菜の苗床も見せてもらった。水田では、早稲であるキヌヒカリはすでに刈り取られていて、ヒノヒカリがこれから刈られようとしているところだった。米の世話は竹中さんのお父さんがされているそうだ。キヌヒカリもヒノヒカリもこの辺りではよく見かける品種だ。西の米は北の米と比べてあまり美味しくないと思われがちだが、それは幻想だと思う。
それに多くの場合、炊き方や水加減で、うまい米を不味くしてしまうことのほうが多いのではないだろうか。西の米も一度はみなさんご賞味あれ。
竹中さんのところには東京からきたお嫁さんがいて、二人で朝市に参加している。二人で精力的に新しい野菜や変わり種の栽培にも力を入れたいそうだ。僕が用意したハーブ苗も竹中さんのところで幾種類か育ててもらっているところだ。僕としては、溢れるバイタリティで減農薬や変わり種野菜だけでなく、どんどん自家採取や無農薬的な農法にも力を注いでもらいたいと思っている。なにしろ気持ちいい程にバイタリティを感じる。農作物を食べるということは、植物の生命力とそれを育てる農家のバイタリティをいただくということなのかもしれない。
【徳島県板野町 黒川さん 2004.09.05の記事】
板野町でハーブ園を営む黒川さん。
「雑草が生え放題で・・・。」という黒川さんの農地は約20年ほど農薬を使っていないそうだ。牛の世話は旦那さんの担当で、ハーブ園の肥料は牛舎にいる牛の牛糞を堆肥にして必要に応じて施肥しているので、自分達も安心して食せるのだという。
大量に生産をしているわけではないが、是非多くの人たちにフレッシュハーブの良さを知ってもらいたいという。息子さんが料理人でハーブ料理の店を親子で立ち上げようと奮闘中だ。
ハーブ園には露地とハウス栽培をあわせて、ローズマリー、ラベンダー、レモンバーべナー、レモングラスをはじめ約50~60種類のハーブを育てている。
下の写真は露地に茂るミントで最初は畝をつくって栽培していたが、今では茂り放題になっているのだという。伺った
時に、久々にフレッシュミントを惜し気もなくふんだんに使ったミントティを頂いた。手作りのパンも一緒に頂きとても幸せな気分になった。
【徳島県市場町 古本さん 2004.09.05の記事】
古本さんは徳島県市場町で農業を営んでいる。
四国吉野川の北側で、古本さんの農地からもう少し北へ行くと香川県、四国霊場八十八ヶ所の八十八番目の札所・大窪寺がある。四国の山間としては傾斜も緩く開けた南東に面した阿讃山脈中腹の明るい場所が、彼の農地だ。
古本さんの農地は奇麗な石積みで区切られて優しい感じのする水田が広がっている。この石積みはほとんど古本さんが一人で築いたものだ。古本さんはコンクリートのものよりも補修が簡単で、お金もかからないという。ほとんど崩れることもないが、崩れても手作業で石を積み直した方が良いという。
「ユンボで補修しようとすると要らんところも掘ってしまう。」
だから、手作業のほうが良いのだ。
水田の上には杉林とクヌギ林があって、椎茸を栽培している。ふっくらとした大きな椎茸が自慢だ。
「他から材木を買ったほうが安上がりだが、せっかくここで育った木なのだから、ここで使ってやるのが一番いい。」
杉の木は家を建て直したり、補修したりする時に利用するのだという。古本さんは自分で家の建て前もやってしまう。多彩な農業技術者である。彼にとっては、米や野菜をつくるだけではない、生きて食べて暮らす生活全般を司るすべての知恵が農業なのだ。
【徳島県脇町 川下さん 2004.09.05の記事】
脇町の川下さんの住まいと農地は脇町に流れる大谷川の左岸段丘から川辺にかけてのゆるい斜面にある。
畑では川下さんとお義母さんとがそれぞれ好きなものをつくっている。田圃は85歳になるお父さんが元気に管理している。お父さんは農地全体の草刈りや田畑の縁の石積みをするのが日課になっているので、除草剤などはいらない。
「有り難いことに、お義父さんは草取りをするのが趣味みたいなもんじゃ。」という。確かに、無駄な草は摘み取られて、奇麗な田畑だ。
川下さんはちょっと変わったものをつくるのが好きで伺った時は、沖縄、東南アジアでよくつくられる四角豆(ウリズンまたはウィングドビーンズともいう)やムラサキヅルなどをつくっていた。果実畑もあり、キィウイ、モモ、イチジクの木などもあって川下さんの農地には多彩な農作物が広がっている。
【徳島県脇町 金垣さん 2004.09.05の記事】
徳島県脇町の金垣さんは農家ではないが、
天然酵母のパンを焼いて、朝市の集まりに参加してくれている。
その昔、脇町の始まりともいえる稲田氏の家臣たちや城の修繕をした大工たちが集住したといわれる大工町に暮らし、障害者施設の子達とパンをつくったり、売ったりして活発な活動を続けている。阪神大震災の時にはここで皆で、お握りをつくって被災地に送ったりしたそうだ。これと思ったら先ず行動するのが金垣さんのすばらしいところ。
金垣さんの天然酵母パンは密度感があってとても品のあるパンだと思う。
徳島でせっせと週に一回、天然酵母のパンを焼く
金垣のオカンと久しぶりに電話で会話。
個人の農家さんのハーブの栽培についてのはなしをする。
今日は金曜日だから、金垣のオカンはパン生地をこしらえているところだった。
手を休まさせてすいません。
電話の後、来年の収穫に向けて誰にどんなものを
作付けしてもらったらいいのか、いろいろ考えた。
ぼくは、つくるひとの性格や表情が農作物に現れるものだと思っている。
だから、農作物とそれをつくる人の相性と言うものもあると思う。
相性のよいものを、気持ち良く、愛情を持ってつくってもらいたい。
つくりての気持ちも尊重しながら、どんなものを、
どんなふうにつくったら良いか一緒に考えて、実行していきたいものである。
夜になって、
日経ビジネスにのっていた高遠さんの記事を読み直す。
(高遠菜穂子「イラクのことを伝えると約束」日経ビジネス2004年6月7日号)
政府関連機関、日本国民に対して、感謝と社会的重圧に対しての
恐怖感などが述べられて、非常に気を使いながらのコメントだった。
しかしながら、人質事件前後の経緯を非常に素直に書かれていて、
周囲の対応についても、興味深い記述があった。
例えば、解放された後、
『大使館でイラク大使の大木(正充)さんが、「自衛隊が
撤退なんかするわけないじゃん。出したばっかりで、
体裁悪いし」とおっしゃったのも、すごくショックでした。』
と書かれている。
これはこれで、ふぅ~ん、と思っていたが、
さらに
☆シバレイのblog☆イラク取材日記の
「絶対ワザとだろ!!(ちょっと書き加えました)」6月21日付け
http://www.doblog.com/weblog/myblog/10644
では、国の自衛隊の使い方の体の悪さを裏付けている。
体面で命をさらすのも、命を奪われてからじゃないと、
まともなことをやっているのかどうか、わからないのかな。
NGOやNPOと政府はもっと国内でコラボレーションの仕方を話し合うべきだと思う。
そして、個人的な活動を抑止するのではなく、盛り上げていく
仕組みを考えた方が前向きだと思う。
今の状態を仕方なしとするのは、近代国家に暮らす人間の質としては、
レベルが低いと言わざるおえない。
対話不全に陥っている社会や政府はあまりに奇妙。
対話でそれぞれが気持ち良く仕事が出来ることと、
対話もなく体裁で怠惰に命をさらすことのギャップは大きい。
みなさん、どんな風に仕事してますか?
※ ファルージャでの状況悪化を受けて、4月27日付けで、
提言文を日本政府に対して提出したが、その後も予想通り、
ファルージャはイラクの戦況の要となって、停戦合意、
主権委譲の体裁とは別に、悪化の一途をたどっているようだ。
僕は、活動家ではないので、これ以上の活動もしようもないのだが。
↓「抜粋提言文」
【徳島県脇町 佐藤さん 2004.07.06の記事】
徳島県脇町拝原の農家・佐藤光輝氏。
父の代から茄子の生産に取り組む。高度成長期の幼少のころ、父親は農薬からくる手足のしびれを感じた。必要以上の農薬を使用していた時代の話だ。
その後、父は農薬をなるべく使わない方法で農業に取り組んでいった。
そして息子である彼は今、父母と共に植付け後の施肥をせず、農薬を一切使わないで、茄子の生産を行っている。
植付け前の土づくりの配合飼料と、作付け後の一回消毒をおこなうだけの生産方法で美味しい茄子をつくり続けている。
また、農業後継者の会(緑友会)の会長として、朝市の運営や、様々な活動の世話役となっている。温厚な人柄は、これからの「農」のある優しく豊かな暮らしに欠かせない人物。
そして、夏の終わり、佐藤さんの水田を見に行く。
吉野川の河川敷だった低地に広がる一反ちょっとの水田。佐藤さんの家は元々脇町ではなかったので、農地はあちらこちらに点在している。そのひとつがここだ。
台風を耐えて、実った稲ももうすぐ収穫だ。ふと、足下の用水路に目が止まった。水田のあるところでは何げない当たり前の風景だが、用水の引き込みを調整する石が置かれている。石は都会では、ただの石でしかない、しかし石の置かれる場所、使い方、人との関わりが多様なことが、漠然とであるが、とても重要なように思えた瞬間だった。
僕は、とても何げないその石たちに、ささやかな有り難みを感じた。
【朝市】
こうした方々とうだつの町並で、朝市を企画し、皆で話し合い実行することになった今(2010年現在)でも、続けているということだから、五年は続けたことになる。
始めた頃の僕の記事は以下の通り、
「徳島県吉野川中流域の脇町の道の駅「藍ランドうだつ」では、これまで不定期に行っていた朝市を土曜日、日曜日にもやりはじめました。
朝市の会合に参加してくれている、元気な地元の農家の主婦の方々。
その有志で土日も継続的に朝市をやりはじめた。ぼくがいったときは、ネギやレタス、ニンジン、それからヨモギ餅などを販売していた。季節柄、朝山取りしたイタドリ(ユタンポ)も並べられていた。イタドリは最近の都会では見ることも食べることもなくなった。四国では徳島の人より高知の人の方がよく食べるらしい。ほかにはハッサクが並べられていた。庭先で採れたものだから、農薬もかかっていない安心の柑橘類だ。とくにこのあたりのハッサク、今年は甘み酸味とも程よくかなり、かなり美味しい。ここでは大玉のハッサクが5~6個はいって、300円というお買得。レタスは鮮度の良いものを100円にて販売。
ゴールデンウィークあたりに徳島においでの方は、午前9時~午後2時か3時ぐらいまでやっているので立ち寄ってみてください。徳島自動車道脇町インターから10分程度、うだつの町並みの藍蔵(道の駅「藍ランドうだつ」)の軒先でやっています。(2005.04.25記す)」
あれ以来、伺うことができていないが、好景気といかなくても、そこそこ盛り上がっていてくれるとよいのだけれど.....。
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