2025年9月28日日曜日

山地の日常的な生活、夕顔

 本日終了(2025年9月28日)の米沢で開催されたミナミハラアートウォークにS&T(ギャラリスト上村氏の主催するギャラリー)を通じて出品させていただいた立体作品「日常的な生活、夕顔」。


ミナミハラアートウォークにご来場いただいた方は、一足先にご覧いただいているものですが、土台の部分も含めて杉の廃材で削り出し、オニグルミのインクで着彩し、ワトコオイルをコートしたものです。防腐剤などは使っていないので、ゆっくりですが少しずつ経年変化が想定されています。
山中の村で制作作業をしていると村の近所の人が農作物を持ってきてくれます。自分の作業しているものよりも余程美しいなと思えたりするところがあって、そのままその美しいところをしばらくの間、定着させたいと思うと、それまでの作業を止めて、農作物の美しいと思ったところを削り出していきます。
どの農作物の削り出しも実寸大ですが、良いなと思えたところを捉えられた時点で作業を止めるので、完全にリアルなものとして再現するわけではありません。着色も含めて捉えた時点で蜜蝋かワトコオイルを塗り完成させる、と言った具合です。
農作物も少しずつ乾燥したり変化していくのでナルハヤで作業します。
山地の雪が溶けてようやく村人が思い思いの作付けが出来る様になり収穫出来る時期は夏の一時期で、そのあと秋口には大根、はくさいぐらいの収穫になり、冬支度になるので、ある種の収穫と生の喜びに近いものが農作物に宿っているように思えたりするところが、美しいな、というところなのかもしれません。 夕顔は一般的なスーパーなどでは見かけません。
実際、大きくてわざわざ購入して持っていくのも、調理の汎用性を考えても、ちょっと躊躇します。が、その大きさや重みに気持ちが上がります。持ってきてくれた人も嬉しそうに面白そうに持ってきて、大きさや重さを話題にして、話がはずむところを同じ様にこの制作物から感じてもらえればと思ったりしたのでした。

2025年9月25日木曜日

綺麗なグリーンの特製ドライマティーニ

鹿の赤ワイン煮、鶏モモ肉のコンフィ、デザートはカボチャのカステラ。特製ドライマティーニと、久しぶりにカクテルを作って飲む。
いわゆるドライマティーニは、ジンとヴェルモットをステアして、オリーブをグラスに沈め、最後にオレンジだかレモンだかのピールの香りをグラスの上に放つらしいのですが、特製マティーニは、イチジクの葉を漬け込んだタンカレーとノイリーで割ってステアしたものです。我ながら、ジンのネズの香りとイチジクの香りが合間って絶対に鹿肉には合うだろうと思う(針葉樹のネズの木のある標高の高い山地と鹿の生息地が近くて風景まで感じさせてくれるよう)。小洒落た感じでオリーブを1つではなくて、一杯に付き3つ、4つはオリーブを入れてオリーブをカリカリしながら塩味味わいながら飲むのが吉(写真にはオリーブが1つしか見えないけど、4ついれたんだけど、食べちゃったさ)。
イチジクの生葉を漬け込んで綺麗なグリーンに染まったタンカレーが特製マティーニを爽やかにしてくれる。オリーブのグリーンとイチジク葉のグリーンの取り合わせが綺麗だなぁ。
ちなみに、鹿の赤ワイン煮も鶏もも肉のコンフィも、カボチャのカステラ(ナスのコンポート添え)も、27日の只見町のこみと屋さんでの営業の仕込みなので、食べたわけじゃないです。
(こみと屋さんインスタ→ https://www.instagram.com/komitowu/?hl=ja 、美味しいカンパーニュを販売してます。)

僕のご飯は、海苔とかつぶし、胡麻塩をかけたご飯とけんちん汁。どちらも先日営業の残り物。でも十分美味いよ。

マティーニは、最近の瓶詰めの成果を試したもの。イチジクの葉っぱは、乾燥したもの、オイル煮付けたもの、そしてお酒につけたものを作ってみた。色は綺麗なグリーンだが、豊富にポリフェノールを含み、肝障害、高血圧、血管の保護、皮膚の炎症防止に効果があるらしい。イチジクは神奈川の家の庭で出来たもの。他にビワの葉を乾燥させてビワ茶に、暑さのせいか実はかなり収穫できたのでブランデーに漬け、またビワ酢も作ってみた。ビワ茶は綺麗な赤色で、ビワの実の酢はアンニンのような独特の香りと自然な甘さが吉。
そして、只見町の布沢地区で採れる堅果になる前の未熟なオニグルミの実を煮出して熟成させて、絵を描くためのインクとお酒を作ってみた。クルミのお酒はイタリアでは作るらしい。ザラメとねっか(只見のお酒)煮出したクルミの液体を混ぜて発酵させる。黒い独特な自然なインク?の味わいは多分、消化機能を補完してディジェスティーボとして飲める感じです。
そんなわけで、緑と赤と黒と揃った感じが嬉しい。
スタンダールになぞらえれば、自然(緑)と生(赤)と死(黒)が揃った、というところか。
19世紀中期、産業革命の後、様々な階級闘争が起こり、権力と経済抗争が分化して、魑魅魍魎(自筆なら書けない漢字)が群雄割拠し、個人にしろ国家にしろ生と死を往来した時代を背景に主人公が葛藤する様が実際の事件に準えて小説化された「赤と黒」。歴史は繰り返されるように、現代もまた似たような状況に見える。19世紀は、古典主義からロマン主義が台頭し庶民のリアルを体現しようとするなか、クールベのような田舎から抵抗勢力として芸術と社会に直接関与する芸術家が現れた。ナポレオンの後、王政復古を唱えるものも後をたたず混沌とした、保守も革新も区別することが無意味な社会にあって、誰もがどう生きるかを模索しなければならないシビアな時代に、現代も当てはまるのではないか。石破総理が、国連総会で、観衆もまばらな中、なかなか立派な演説を行ったが、貶す輩も多い。良いじゃないか、良いことを公前で言えた時には、たとえダメな政党政治、与党でも評価してあげれば。マリオの格好で公前に登場したヤツより全然マシだ。国会で同じように振る舞えればと、但し書き付きだが、高市や小泉や茂木や野党の連中より、瞬間だけだったが余程マシだったとおもう。瞬間でもマシなことに次々と喝采を送る。人となりではない、人となりはどんどん変化する。それよりマシな直接的な事象の連続に喝采を送り続けることに意味があるのではないか。
ヴェンダースの頭でっかちな映画が嫌いだ。ヴェンダースの映画よりベンダースのインタビューの方が断然良い。ヴェンダースは、サム・シェパードの脚本と組み合わさって、素晴らしい映画が生まれる。サムだって、俳優としては高身長でカッコイイばかりで、ザ・アメリカみたいな役柄でしかないけど、彼の書いたものをヴェンダースが撮れば、脚本も俳優としても光ってみえる。是枝監督もそうだが、ヴェンダースは配役が良いことは確かだ。そういうセンスを頭でっかちさが邪魔をしてる。理解できない情緒が必要なんだよ。だから、ヴェンダースはパトリシア(・ハイスミス)に焦がれているのかもしれない。パットは言う
「人の願いには、失望がついて回る。それでもそれは普通のことだし、多くの人は正気を保っている。つまり人は誰しも希望を抱くけれど、仕事や結婚などに望んだものが叶う保証はないのよ・・・・・。」
素晴らしい出会いは人生を軽やかにしてくれる。ただしそれは人生の重みの欠如という意味でもある。(Patricia Highsmith)

軽やかな素晴らしい人生と人生の重みの両方を体現したがるという、大いなる矛盾に私たちは生きているのかもしれない。
慎重な悲観主義と楽観主義の行動と実効性のバランスの中に生きざるおえない、と言ったところか。

布沢では、昨年豊作だった野生かしたスモモはほとんど実をつけなかったが、昨年収穫した実が、ジャムにしたものと冷凍保存してあって、グラニテかジャムとして食べられる。ヨモギは昨年より今年、草刈りをしながら、かなり多めに収穫して乾燥粉末にして、お茶かケーキかお餅にする。ハッカも耕作放棄地で大量に収穫でき、使うたびに採りに行く。と言った具合で、歳時記的なスケジュールを組んで要領よく時期をみて活動すれば、色々と物産が得られると具体的に思えるようになった。もちろん、村の人がつくるお米や村ぐるみで育てている蕎麦もある。ただ、どれをとっても結局労働力をどう確保するかが鍵だし、収穫効率化を図れなければ経済化も難しい。趣味の程度から経済化するには、同じ田舎でも山地の田舎と平地の田舎では大きく生産性に違いが出てくる。山地の現代的な意味での生産性は、便利な田舎と比べてかなり難しい状況であると認識しなければなりません。
基本的には現代的に言えば、山地は、
生産効率のかなり低い土地であることから、ほとんどの現代的な一般的な産業化の可能性が乏しく、自立的というよりは、国土保全の公益性を社会が認めなければ難しい土地柄でもあることも実感する。日本有数の積雪地であることも、生産性の低さを比較されて、現代社会からは打ち捨てられやすい土地柄であると判断されることも十分にありうる。
それでも、蕎麦の作付けをコルホーズ的に行い、共産的ではない現代の市場に対抗しうる経済化を模索しなければならない。そのへんは村の人が頑張ってくれるとして、自分の苦手な販売戦略を考えなければならないのだなぁ、、、。パッケージデザインとか、販路とか、、、。

などと、うつらうつらと考えながら、綺麗なグリーンのマティーニを飲むのでした。ぁぁ久しぶりに飲みながら、パソコンを前にしたので、だらしなく長々と取り留めなく書いて(打ち込んで)しまった。 


2025年1月2日木曜日

日常が非日常化する事が常態化して正月を正月らしく迎えるのにやや抵抗があり淡々と過ごしたい、とはいえ新たな年を迎えてまた予想だにしない様々な複数の難題を乗り越えて生きていかなければならない今日この頃。
クマと直面する恐ろしい状況があったとして、またもうひとつの恐ろしげな現象、例えば亡霊などに出会しているとしましょう、こんなふたつもの恐ろしい事が目の前にあるとしたらとんでもない事ですが、今の私(たち)の生きている世界はこんな事が日常化しているようなものだったりします。
それで、この解決方法はというと、これを合わせてみる事なのかもしれません。つまり、クマも恐ろしい、亡霊も恐ろしい、ですがクマの亡霊だとしたら、意外と怖くなかったり、それどころか意外と可愛らしく思えてきます。
実際に生きたクマが目の前にいたら恐ろしいですが、亡霊になったクマなら、なんか直接的な危害はなさそうです。また亡霊も人間の亡霊とかなんだか呪いとか恐ろしい感じですが、クマの亡霊なら呪いと言われても人間のそれと比べたら怨念度より自然度が高く、自然の摂理として受け入れても良さそうな気がしてくるような気がします。
自分が抱えている様々な課題は自分の中で大きく膨らみとても乗り越えられそうにないように思ってしまう事が多々ありますが、物事を個別に理解するよりも、複雑な物事を関連づけて理解したほうが、状況はマイルドになって見え、状況を受け入れやすく、解決法が見出せることに繋がったりする場合も結構あるのではないか?

こんなことばかりではありませんが、こんな滑稽な方法でも物事の解決手段として加えて、目の前に与えられた課題に前向きに触れ行動していければと思います。 2024年1月2日