2025年9月25日木曜日

綺麗なグリーンの特製ドライマティーニ

鹿の赤ワイン煮、鶏モモ肉のコンフィ、デザートはカボチャのカステラ。特製ドライマティーニと、久しぶりにカクテルを作って飲む。
いわゆるドライマティーニは、ジンとヴェルモットをステアして、オリーブをグラスに沈め、最後にオレンジだかレモンだかのピールの香りをグラスの上に放つらしいのですが、特製マティーニは、イチジクの葉を漬け込んだタンカレーとノイリーで割ってステアしたものです。我ながら、ジンのネズの香りとイチジクの香りが合間って絶対に鹿肉には合うだろうと思う(針葉樹のネズの木のある標高の高い山地と鹿の生息地が近くて風景まで感じさせてくれるよう)。小洒落た感じでオリーブを1つではなくて、一杯に付き3つ、4つはオリーブを入れてオリーブをカリカリしながら塩味味わいながら飲むのが吉(写真にはオリーブが1つしか見えないけど、4ついれたんだけど、食べちゃったさ)。
イチジクの生葉を漬け込んで綺麗なグリーンに染まったタンカレーが特製マティーニを爽やかにしてくれる。オリーブのグリーンとイチジク葉のグリーンの取り合わせが綺麗だなぁ。
ちなみに、鹿の赤ワイン煮も鶏もも肉のコンフィも、カボチャのカステラ(ナスのコンポート添え)も、27日の只見町のこみと屋さんでの営業の仕込みなので、食べたわけじゃないです。
(こみと屋さんインスタ→ https://www.instagram.com/komitowu/?hl=ja 、美味しいカンパーニュを販売してます。)

僕のご飯は、海苔とかつぶし、胡麻塩をかけたご飯とけんちん汁。どちらも先日営業の残り物。でも十分美味いよ。

マティーニは、最近の瓶詰めの成果を試したもの。イチジクの葉っぱは、乾燥したもの、オイル煮付けたもの、そしてお酒につけたものを作ってみた。色は綺麗なグリーンだが、豊富にポリフェノールを含み、肝障害、高血圧、血管の保護、皮膚の炎症防止に効果があるらしい。イチジクは神奈川の家の庭で出来たもの。他にビワの葉を乾燥させてビワ茶に、暑さのせいか実はかなり収穫できたのでブランデーに漬け、またビワ酢も作ってみた。ビワ茶は綺麗な赤色で、ビワの実の酢はアンニンのような独特の香りと自然な甘さが吉。
そして、只見町の布沢地区で採れる堅果になる前の未熟なオニグルミの実を煮出して熟成させて、絵を描くためのインクとお酒を作ってみた。クルミのお酒はイタリアでは作るらしい。ザラメとねっか(只見のお酒)煮出したクルミの液体を混ぜて発酵させる。黒い独特な自然なインク?の味わいは多分、消化機能を補完してディジェスティーボとして飲める感じです。
そんなわけで、緑と赤と黒と揃った感じが嬉しい。
スタンダールになぞらえれば、自然(緑)と生(赤)と死(黒)が揃った、というところか。
19世紀中期、産業革命の後、様々な階級闘争が起こり、権力と経済抗争が分化して、魑魅魍魎(自筆なら書けない漢字)が群雄割拠し、個人にしろ国家にしろ生と死を往来した時代を背景に主人公が葛藤する様が実際の事件に準えて小説化された「赤と黒」。歴史は繰り返されるように、現代もまた似たような状況に見える。19世紀は、古典主義からロマン主義が台頭し庶民のリアルを体現しようとするなか、クールベのような田舎から抵抗勢力として芸術と社会に直接関与する芸術家が現れた。ナポレオンの後、王政復古を唱えるものも後をたたず混沌とした、保守も革新も区別することが無意味な社会にあって、誰もがどう生きるかを模索しなければならないシビアな時代に、現代も当てはまるのではないか。石破総理が、国連総会で、観衆もまばらな中、なかなか立派な演説を行ったが、貶す輩も多い。良いじゃないか、良いことを公前で言えた時には、たとえダメな政党政治、与党でも評価してあげれば。マリオの格好で公前に登場したヤツより全然マシだ。国会で同じように振る舞えればと、但し書き付きだが、高市や小泉や茂木や野党の連中より、瞬間だけだったが余程マシだったとおもう。瞬間でもマシなことに次々と喝采を送る。人となりではない、人となりはどんどん変化する。それよりマシな直接的な事象の連続に喝采を送り続けることに意味があるのではないか。
ヴェンダースの頭でっかちな映画が嫌いだ。ヴェンダースの映画よりベンダースのインタビューの方が断然良い。ヴェンダースは、サム・シェパードの脚本と組み合わさって、素晴らしい映画が生まれる。サムだって、俳優としては高身長でカッコイイばかりで、ザ・アメリカみたいな役柄でしかないけど、彼の書いたものをヴェンダースが撮れば、脚本も俳優としても光ってみえる。是枝監督もそうだが、ヴェンダースは配役が良いことは確かだ。そういうセンスを頭でっかちさが邪魔をしてる。理解できない情緒が必要なんだよ。だから、ヴェンダースはパトリシア(・ハイスミス)に焦がれているのかもしれない。パットは言う
「人の願いには、失望がついて回る。それでもそれは普通のことだし、多くの人は正気を保っている。つまり人は誰しも希望を抱くけれど、仕事や結婚などに望んだものが叶う保証はないのよ・・・・・。」
素晴らしい出会いは人生を軽やかにしてくれる。ただしそれは人生の重みの欠如という意味でもある。(Patricia Highsmith)

軽やかな素晴らしい人生と人生の重みの両方を体現したがるという、大いなる矛盾に私たちは生きているのかもしれない。
慎重な悲観主義と楽観主義の行動と実効性のバランスの中に生きざるおえない、と言ったところか。

布沢では、昨年豊作だった野生かしたスモモはほとんど実をつけなかったが、昨年収穫した実が、ジャムにしたものと冷凍保存してあって、グラニテかジャムとして食べられる。ヨモギは昨年より今年、草刈りをしながら、かなり多めに収穫して乾燥粉末にして、お茶かケーキかお餅にする。ハッカも耕作放棄地で大量に収穫でき、使うたびに採りに行く。と言った具合で、歳時記的なスケジュールを組んで要領よく時期をみて活動すれば、色々と物産が得られると具体的に思えるようになった。もちろん、村の人がつくるお米や村ぐるみで育てている蕎麦もある。ただ、どれをとっても結局労働力をどう確保するかが鍵だし、収穫効率化を図れなければ経済化も難しい。趣味の程度から経済化するには、同じ田舎でも山地の田舎と平地の田舎では大きく生産性に違いが出てくる。山地の現代的な意味での生産性は、便利な田舎と比べてかなり難しい状況であると認識しなければなりません。
基本的には現代的に言えば、山地は、
生産効率のかなり低い土地であることから、ほとんどの現代的な一般的な産業化の可能性が乏しく、自立的というよりは、国土保全の公益性を社会が認めなければ難しい土地柄でもあることも実感する。日本有数の積雪地であることも、生産性の低さを比較されて、現代社会からは打ち捨てられやすい土地柄であると判断されることも十分にありうる。
それでも、蕎麦の作付けをコルホーズ的に行い、共産的ではない現代の市場に対抗しうる経済化を模索しなければならない。そのへんは村の人が頑張ってくれるとして、自分の苦手な販売戦略を考えなければならないのだなぁ、、、。パッケージデザインとか、販路とか、、、。

などと、うつらうつらと考えながら、綺麗なグリーンのマティーニを飲むのでした。ぁぁ久しぶりに飲みながら、パソコンを前にしたので、だらしなく長々と取り留めなく書いて(打ち込んで)しまった。 


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