2017年1月17日火曜日

明暦の大火から上山まで話をただ繋げてみた。

江戸城の天守閣は明暦の大火(明暦3年1657年)で焼け落ち、経済性と戦のない時代の機能不要性という理由から再建されなかったというけれど、本当でしょうか?

現に新井白石らによって天守閣の計画図までは作られたというし、実際に天守閣の石積基礎まではつくられ現存しています。

江戸時代よりも機能、経済重視とされる現代でさえ、超高層ビルやら東京タワーなどのテレビ塔など、機能に託けながらも象徴的な建設がなされたりします。ましてや封建社会の真っ只中、天守閣といわないまでも、それに類する象徴が本来は必要とされたりするのではないでしょうか?

しかし、この天守閣を建設せず、という重大な決定を行ったのが、二代将軍秀忠の四男として生まれ、武田信玄の家臣信濃高遠藩主保科正光の子として育てられた保科正之であったといいます。

秀忠死後、三代将軍となった家光はこの異母兄弟の存在を知らされて殊の外可愛がったそうです。その後、保科正之は出羽山形藩を拝領、ついで陸奥会津藩主となり松平姓を賜り大名となり、家光の死後、四代家綱の補佐役となりました。

ところで会津に伺い、蕎麦を頂く機会があれば、必ず高遠蕎麦を目にします

高遠蕎麦とは、高遠由来の辛味大根のことで、この辛味大根のやや甘みと辛味のある大根汁に醤油を垂らして、これを汁として食べる蕎麦のことです。信濃高遠藩からやってきた殿様(保科正之)が、蕎麦を食べるときに「これたかとうをもて」と言い、以来蕎麦には、この辛味大根汁が付け合わせられることになったのが由来だといいます。正之は、四代家綱以降、江戸詰がほとんどであったそうですが、後期の会津藩政の基礎を築いたといわれています。

育ての親への忠義から保科正之は松平姓を固辞したという話からは、その人柄がうかがえます。日本初の老齢年金制度を実施したといわれ、江戸城天守閣不要とし城下町の復興を主眼にした政策実行と共通する姿勢がうかがえます。

保科正之が入部するまでの会津藩は秀吉時代に蒲生氏郷が入部し、その嫡子蒲生秀行時代に関ヶ原の戦いで東軍につき功績を挙げ、また家康の三女(振姫)正清院が秀行の正室だったこともあり優遇されたといいます。

その後、秀行と振姫(正清院)の間に生まれた長男忠郷が会津藩主となり、次男忠知が出羽上山藩主となりました。忠郷が早世し蒲生家が断絶となるところ、弟忠知が家督を継ぐことを許され、伊予松山藩に減封されることとなりました。

蒲生家が退いた後の会津藩は、松山から入れ替わり加藤嘉明が入部、二代目で改易され、保科正之が入部することとなりました。

一方、次男忠知の居た上山藩は、その後、土岐氏、金森氏と藩主が安定しませんでしたが、江戸中期に松平信通が移封して藩主がようやく安定しました。

上山までなんとか無理矢理話を繋げてみました。。。。