私の考え

このブログでは, 人と関わりのある緑地の計画, 環境やプロダクトのデザインをしている私の視点から, 不断の努力により保持していくべきだろうと考える風土的なことがらを身近な出来事や経験を通して得た題材を中心に雑感として記述しています.

世の中で言われる「景観」や「環境」ということと, 私が考えている「景観」や「環境」とは隔たりがあると感じることがあります.

そしてまた, 日常的に自然に関わる人、親しもうとする人同士の間でも隔たりがあるものだなと感じることもしばしばあります.

どうやら人間社会では, 地球の自然環境を慈しみ守ることは容易には出来ないようです. それが多くの人の生死に関わる問題だったとしても, 直接自分の生死に関わる事でもなければ, 見て見ぬ振りをしてしまう、自己保身と生命の保持に勤しむことに専念するしかない生物に過ぎず, 地球環境を語るに他の生物に比べてたいそう偉い生物というわけでもない, という気がします。

私は原生的な自然環境を常に完全に守らなければならないとは, 思っていません. 人間社会が土地利用として自然に介入しなければならない事は大なり小なりありますし, 趣味的に自然を愛するつもりもないのです.

しかし, あまりにも生活が都市化した今の日本人の生活感覚には,自分たちが生物として存在している事実を無視し過ぎているところがあるように感じています. やはり, 人も, 自然も, 無機的なモノであっても各々が存在するための配慮する線があり, 今はどこかでそれを超え過ぎているという気がするのです.

どんな時代にも傍若無人な人間はいるものですが, 今の集団化した人間の傍若無人さは戦争による殺戮に留まらず, 自然や個々の人間へも大変な脅威となってきているといっても過言ではないでしょう.

ところで,私は風景の中に大なり小なりの過去的な懐かしさ,それが出会った事が無い場所や環境,そして新しくつくられた場所であったとしても,ある種の郷愁というものが呼び起こされるものでなければならないと考えています. そしてその郷愁はその土地由来の歴史や風土由来のものであり先人の生き様にみる生きる術としての精神性,安定性を与えるものだと考えています.

「郷愁」とは大義も流行も作為も無用な状態であって,善意も悪意もなく真意だけが作用している実感状態の一つです. 日本の古い言葉で「もののあわれ」という言い方がありますが, これに近いかもしれません. 私は,「郷愁」とは懐古趣味ではなく常に今を生きる人々にとって, 未来に向かう「希望」という感覚と同等の日常生活に不可欠で重要な感覚なのではないかと考えています.

本来的な「景観」には,人間にその必要不可欠な「郷愁」を積極的に想起させるという役割があると考えているところなのです. そして, こうした事をなるべく多くの人と理解し共有することができれば幸いだと思っているところです. (文責:田賀)