2023年6月28日水曜日

踏査、前年度の作業を確認して考えること。会津銀山街道銀山峠道普請から。

 銀山峠踏査(2023年6月26日実施)。

作業した方々と昨年度作業した箇所を確認しました。いつも昨年度作業した箇所の確認は積雪融雪後どうなているかと、ドキドキしてますが、良好に安定状況を保持しています。
ここは他の箇所と比べ3年がかりの場所なので、規模も大きく、架構としての見応えがあります。とはいえ、自然素材のみでできていて、風化に対しても、極度の変化や崩壊にならないように計画し、また徐々に自然との調和性が形成されるように配慮しています、これから何年かすると組まれた丸太と土や草の接したところから草木が被い、丸太組の架構よりも自然との調和的な景観に変化していきます。
よく言われるのが、もっと登山道のように周辺環境の破壊を少くしてやるべきなのではないか、といったことだったりします。自然志向の方からは破壊行為的に思われたり保全性が低いと評価されがちですが、自然保全一辺倒ではなく、その場所の土地利用の状況に沿った自然との調和性に配慮することが大事だと考えています。

ある時、山小屋を経営もしている仕事の先輩から、私の道普請の作業の写真をみて、いいと思わない、と言われた事があります。その先輩は多分自然環境重視の視点からそういう見解を述べられたのだと思いますが、山道といっても登山道とは全く異なる古い道の保全整備との区別がつかなかったのだと思われ、その先輩がその事がわからないはずはなく、私の説明不足を痛感したのでした。人と山との関係はアルピニズムや観光だけでなく、もっと人の暮らしとの関係性があり、複雑で多様な調和性の現代的な検討や運用、周辺環境、ロケーションの違いがあり、それに気づいてもらえるような見せ方や説明などのプレゼンテーションも大事だなと思わされたのでした。
私がまず区別しているのは、そこが自然保全を中心とした登山道なのか、林業などの作業路のようなものなのか、里山の里道なのか、歴史街道のようなものなのか、といった人間の運用の種類によるという事と、交通量や利用頻度、管理の頻度と体制を考慮して計画しています。
ただ、基本的には化石燃料由来の素材やコンクリートといったものは使わない。
たまに土管やヒューム管、化石燃料系の管などを用いる例をみかけますが、私の考えとしては非常に精度の必要な生活インフラに関わる施設で且つ管理がしっかりされる場合、でない限りそうしたものは使いませんし、例えば観光や循環型社会を中心とした山里の里道は手作業や自力で管理しやすい工法と素材を採用します。



また、逆に自然素材を多用したり、なるべく人力で行うやり方や考え方に対して、人の労力が少なく面倒が少ない新素材を使ったりヒューム管や塩ビ管などを利用して地下埋設するようなやり方の方がいいのではないかと言った地元の方と意見の相違がある場合もあります。
それで、そこは丁寧になにを大事にしていくのか、理解と合意を育むように努力しています。とはいえ高齢の方々の時限的な焦り、ソフト志向による目前の目的重視も根強く、インフラ整備の丁寧さよりも分かりやすい成果を求められたり、事業の進捗も速いやり方のほうが称賛される事も多く、そちらの方に全体の意見がなびいて行ってしまうことも多々あります。
私の目にはそうした方角に進められたものは、人間よがりの自信過剰なやり方に感じられ、残念に感じることもあります。どちらが良いのか、分かりませんが、最低10年ぐらい経って、自然と人との関係がどうなっているか、ということなのかもしれません。そうした時、私は四国の阿波町で石積みの棚田を守ってきた年配の方が人間の手だけでやれれば、そこは人間の手だけで直せるし、必要以上に壊さなくても済む、と言った事を思い出します。
いずれにしても、環境と調和する公共性のある空間に対して、または、人の暮らしの安全性や循環型の調和環境の志向の必要なところでは私としては拙速な利便性や合理性、単純な目的性に特化した事にならないように努めています。




その意味でも、3年かけて丁寧に積み上げてきたこうした木造の架構は、私の計画というのではなく、地域の方々の丁寧で辛抱強い活動や姿勢が新たな歴史として風景となっているように思えています。地元では子供たちとのウォーキング大会があり、ここを渡ります。ただ通れるようになれば良いとか、大所から俯瞰的に自然や歴史を味わうのてなはなく、自然の美しさや歴史的な価値だけでなく、今の人の活動や認識が歴史として積み上げられ、美しさとして認識され、尊んでもらえれぱ、と願っています。 踏査の合間に喫茶時間を設けて、山の中でくつろいで過ごす時間を若いスタッフが設けてくれます。ハードの整備だけでなく、ソフトの思考で山の中での人の活動、営みを感じるには良い時間です。山での暮らしが大変だ、ということでは、誰もが山を降りていってしまいます。山の暮らしや活動が、人の心に何をもたらすのか、ということを考えれば、都市的な生活では得られない事がたくさんあり、登山観光だけでなく、人の活動には自然との関わりがいかに大切であるかという事を味わい、さまざまな形で感じる、なるべく多く人がそうした経験を増やせるようになっていければいいなと思います。




2023年4月10日月曜日

近自然工法でできた引地川の景色

 【緑地・河川公園】引地川河畔

ここは私が学生だった頃、コンクリート貼りの三面護岸だったところだが徐々に近自然工法により整備され、上流部の水源地と周囲の樹林も自然に残す形で公園化された。
自然風護岸という括弧付きの自然でははあるが、都市化された市街の緑地としては市民の憩いの場としてそれなりにおさまっている。


最近の利用者のマナー、特にゴミの放置が問題となり、大々的な花見宴会やキャンピング的な行為は制限されてしまったようだが、弁当とお茶を持ってきてボチボチと楽しむ分には良いみたいだ。

今時期、ムラサキハナナが桜の後も河畔に咲き続けてて、楽しませてくれる。
ムラサキハナナとは、紫の花の咲く菜、ということのようだ。明治以前からある帰化した植物らしいが、ここでは多分計画的に植えられたものだと思う。帰化植物だが観賞用に一応種なども販売されているようだが、「菜」というぐらいで食べられもするらしい。一度、御浸しにでもして食べてみたい。

桜の時期は短いし、人でも多いが、小さな花々も咲いていて、桜の後でも陽気の良い時期、桜の後の時期梅雨入り前までは和んで過ごせそうだ。


この辺りは水源地であったこと、厚木飛行場の騒音の為か市街化があまり進まなかった事、そんなことで貴重な首都近郊の緑地として残されている。








平野の樹林(小貝川の段丘斜面林)

 【樹林形成・緑地】小貝川段丘緑地(ケヤキ、シラカシ、モウソウチク、ネザサなど)
関東平野は日本の中でも広大な平地が続く。
人は平地を耕作地に
開発してきた。すっかり見渡す限り、人の暮らしに直接資する農地と市街地と道路ばかりが目立つが、よく見ると細長く続く樹林が見える。平地にあっても河川の長年の歴史によって生み出された段丘斜面があって、利用効率の悪い斜面が緑地(樹林)として残されているのがわかる。


小貝川沿いを車で通りすがる途中、近づいてみることにした。
遠目からは落葉樹と常緑樹の混交林といった雰囲気だが、実際はどんなものか。
遠目からは高さをあまり感じないが、斜面の高さは12〜15メートルはあるようだ。斜面の角度が45度だとしても緑地の幅は15メートルはあることになる。それが小貝川に沿って何キロも続いているのだから、農地と市街地が広がる土地としては貴重な樹林だと思う。


近づいてみると、真っ先に目立って見えるのはネザサと竹林なのであった。
斜面下に立つと、貴重な樹林はみっちりと隙間なくネザサや竹に覆われて、遠くにポツポツとケヤキの大木が見える程度だ。合間にはもしかしたらケヤキやカシの稚樹がいたりするのかもしれないが、明らかに旺盛なのは竹林だ。
このまま放置していれば、そのうち斜面は竹林だけになってしまうのかもしれない。
肥料も薪も必要としない現代においては、竹林だろうが賊樹林だろうがどうでもいいのだろう。
しかし、もう少し残された緑地(斜面林)の有り様を考えてみても良いのではないだろうか、と要らぬ心配をしてしまった。


大木と竹林では人がわざわざ入っていきたくはない面倒な緑地にしか見えないのかもしれない。
自然にとってはそれでいいのかもしれない。ただ、どんどんと人の暮らしの調和という感覚はどんどん薄れていくように思えてくる。

2023年4月8日土曜日

梅林と海軍道路の桜並木

 【樹林形成・緑地】

横浜市の西、大和市との境あたりに「海軍道路」と呼ばれる道がある。
桜の街路樹が延々と続く道。あたりには建物らしい建物がほとんどない、首都圏近郊では珍しい場所。サクラの並木が広大な原っぱに続いているが、子供の頃と比べると並木が片側だけの区間になったり、幹線道路からの入口付近は道路拡幅や道路線形の変更が行われ並木そのものがなくなってしまったり、ソメイヨシノは管理が大変ということで伐採されて歯抜けになっているところも目立ち、徐々に桜並木の景色が失われてきている。県や市はどうやらこの桜並木を残す気は無いらしい。
明治神宮の森が今、開発の波に晒されているように、このあたりも開発の計画があるようで、開発が進めば、この桜並木もいずれなくなってしまうのだろう。

海軍道路とは
旧日本海軍の弾薬庫だった場所の敷地内道路だった。
桜並木は戦後のものではないだろうか。まだ調べていないのでわからない。
戦後、弾薬庫は進駐軍に接収され、つい最近まで米軍の通信基地となっていたが、
衛星による通信が発達しその役目が終わり、日本に返還された。こうした米軍の土地は沖縄県に次いで神奈川県が多い。私の家の近くでは厚木飛行場や座間ベースなどがある。

自分は米軍になってからの海軍道路しか知らなかったので、米軍の海軍の道ということかと思っていたが、日本の海軍の道だった。


通信基地周辺)
首都圏近郊になる広大な緑地は概ね240ヘクタールほどあるという。
貴重な緑地がこれから開発の憂き目に合うという事なのだが、2023年現在の日本の景気状況では目処が立たず、あまり開発は進んでいないようである。
戦前は海軍の弾薬庫、戦後すぐには軍から地元の農家に払い下げられたが、その後進駐軍に接収されてしまった。この接収されるまでの間は戦後動乱の食糧難の時期で、払い下げられた土地は畑となり食糧生産の現場となっていたという。
その後、通信基地の規模が縮小され1ヘクタールに満たない大きさで地元農家に払い下げられたらしい。それで親の代で梅林にしたのだとここで出会った農作業をしている地元の年配の方に伺った。結局、地元の地権者は時代に翻弄されて2度土地を買わされているみたいな事になって、そして今、開発するとかなんとかで、買い上げが進められているらしいのだが、それで明け渡す際に、梅林を撤去しなければならないらしく、一部伐採したものの、不景気のためか、現在(2023年4月現在)明け渡しが伸びてしまっているそうだ。




植木のためのトキワマンサクの植樹が見えた、他にもいろんな庭木が植えられているところもある。畑をしているところもある、草原の状態の場所もある。
目につくのはバックホウで造成のようなことをしている場所。もう開発の造成が入っている場所もあるのかと思ったら、都心のトンネル工事などで排出された土の置き場になっているということだった。

野良仕事をしていた老人は、土地が時代に翻弄されてきたことを経験した為か、こういう時は波に飲まれてあらぬ事になってしまうから静かにしているのが一番良い、と言っていた。
権力や世界の情勢に付き合わされて跳ね飛ばされていく人がいたのを見てきたのだろう。

梅林)
彼の農地には梅林が植えられていて、3つに区分されている。一つは草刈も剪定も漁れている管理された梅林、そして全く管理をしていない枝が密集し地面も草刈されていない梅林、そしてその合間にある畑。畑の合間には梅の根株が残っていたりしているので、最近まで全体的に梅林だったことが伺える。
先に書いた通り、梅林を処分してくれと言われて、処分し初めたのだが、結局まだ引き取ってくれないので、ネギなどを植えて畑にしているとのことだった。管理している梅林は欲しいという人がいるのでやっているらしく、管理していない梅林は売れもしないし、管理も大変なのでそのままという状態だということだった。

人の暮らしも社会に惑わされていくが、身動きの取れない植物は人の都合で植えられたり切られたりと、身勝手な人間に難儀している。それでも息吸うことすら人の生存に不可欠な植物たちは、人間の身勝手な活動をゆっくりと見守り、文明が止まれば自然の力として覆い被さってくる。だから、気にすることもないと言えば無いのだが、どちらかといえば人間にとって良好な暮らしには、植物との調和的な暮らしや個人、公共に関わらずもっと多くの適正な緑地を確保し良好な景観形成していくことが必要に思う。むしろ植物のためではなく、人間のために植物との調和的な環境が必要なのでは無いだろうか。
(文章がまとまっていないようにも感じるが、メモ書きとして、20230408田賀)

管理された梅林

放置された梅林

梅林を伐採して畑となった場所。
切り倒した梅の幹が転がっていた。












2023年2月24日金曜日

なまらないように(ある日)

 お籠もりが続き足腰が弱る。マズイと思い今日は晴れていたので少し歩くことにした。

家を出て若宮八幡に向かう途中村の人が出掛けようとしているところに出会う。スノーモービルを積んでいたので、何処に乗りに行くのか聞くと、イノシシ狩りに行くと。
獲れたら分けてくれると言って出ていった。
それから若宮八幡へ向かい橋を渡ったけど、神社まではカンジキでも履いていないと無理そうだったので、途中の雪の上に腰を下ろし、雪景色を眺めながら携帯してきた湯をすする。
お茶にすれば良かったか、腰に敷くマットがあれば良かったかなど考えながら、まだ陽が上がったばかりの冷えた空気の静かな景色を眺める。気分はいいがさすがにそう長居は出来ないなと腰を上げ、それに体を動かそうと出て来たのだからと、毘沙沢の方に向かってみることにする。途中、沢の入り口で何人かの村人に会い挨拶をして、ゆるい坂を登っていく。圧雪されてはいるが車の通れない道を歩く。時折、キジのような鳥の声がする。詳しくないので同定はできない。
圧雪された道は少し足を取られるものの、思いの外硬く閉まった雪でカンジキなしでも歩きやすく上の方まで歩けるような気がして、歩みが進んだ。結局集落まで辿り着き、ちょっと挨拶と思ったが、お茶とお菓子を頂き、長話をしてしまった。
30年前の様子や色々な話を伺い、沢を降りた。
来た時より気温が上がり手袋をしないでもそんなに悴まない。素手で空気を感じながら歩くゆるい下り坂は快適だった。
家に戻り、昼過ぎに朝約束した肉を持って来てくれた。
今日は収穫はなかったそうだが、代わりに以前に獲ったシカとイノシシの肉を届けてくれた。刺身にすると美味いというシカの部位もつけてくれた。コイツはラッキーだ。さていつ料理するかな。 (2023.02.23)


2023年2月7日火曜日

晩春に短い成虫の時を過ごすキアシドクガ

ドクガと言っても言っても毒があるわけでもない。
むしろはかなく可憐に見えてしまうのは、短い一生の時を舞うからなのだろうか。
ミズキを食相とすると言われているけれど、見ているとミズキ以外の樹木の周りにも多く見られる。2020年5月20日、神奈川県大和市泉の森にて。








 

旅するチョウ_アサギマダラ

 2021年9年9日、箱根仙石原で撮影。




2023年2月5日日曜日

シラカシの純林

 あまり難しいことは書きません。雑感をダラダラと書き留めます。
たまに散歩する公園の斜面林はシラカシの純林ということで神奈川県の天然記念物に指定されているのだとか。この泉の森と言われる公園は小学生の頃、水源池、と言われていた場所で、「1人で遊びに行ってはいけません」とか「入っちゃいけませんとか」言われていましたが、今は公園として整備されています。


天然記念物と言っても、人が薪炭林などで管理していた二次林の樹林なのだと思いますが、相摸野台地という周囲に山というものが全くない場所で、樹林として残っているということがとても貴重なのかもしれません。ほとんど都市化してしまった神奈川の北部の貴重な二次的な自然と言えるのでしょう。国道246号線や東名高速道路で都心から来て初めて出会う大きな緑地帯で、大きな道からも林冠を見ることができます。

このシラカシの樹林の林床に生えているものを見ると、ほとんどトウネズミモチかネズミモチ、そしてマンリョウ、センリョウがちらほらといます。
シラカシは常緑樹なので樹林自体は少し暗めです。植生的に面白いかと言われれば、もう少し多様性があってもいいかなとか、勝手に思ったりします。純林で残すのもいいけど、循環里山みたいな部分を整備、管理しても良いのではないかな、と思ったりしますが、今は管理が行き届かず、樹冠からの大枝の落枝の可能性がある場所などは通行禁止になっていたりして、なかなか管理も樹林の維持の考え方も含めて調整して市民活用というには難しい課題もありそうです。

この公園は現状の緑を残すように管理されていますが、それは大和市の水源池であることからなるべく人が開発的な活動をしないように維持されてきたことが、現代の都市化した首都圏郊外でこれだけの緑地が残された大きな要因なのだと思います。それゆえ山地じゃない場所でよく樹林が残されていて、もし水源地でなければ多分開発されて緑地など残っていなかったことでしょう。自前の水が確保されているということは、その土地の自然度を保つということ、そしてそのお陰でそこで人の暮らしが担保されていることの現れ。逆に言えば、自然度のない場所は人の暮らしが自立して成立しない土地であることは間違えがありません。
都市化した都心、そして郊外でのそれでも人の暮らしは自然と切り離せないことを象徴的に見せてくれている場所はとても貴重なのだと思います。この泉の森をはじめとした引地川に沿って連続する公園群は市民の憩いの場としてよく活用されていると思いますし、水源池ということもそれなりにPRされているとは思うのですが、それ以上に人々の生命の源泉としての水源の保全ということに必要な自然度、ということをもっと周知しても良いのではないかなと思うのでした。


2023年1月17日火曜日

2022年の仕事を振り返る(銀山峠道普請を通じて)

 2010年以来ここ10年以上、奥会津の山中で作業を地元の方々としている道普請。今年の特に印象的だったのは会津銀山街道の銀山峠での道普請でした。

2年前の2020年から3年掛となっている銀山峠の崩落箇所の修復は、ようやく2022年の秋11月14日に完成を見ました。これまでの他の地域や個所での山道の修復や整備の蓄積を何かの形で記録しその手法などを継続できるようにしていく必要を感じていることもあり、どうまとめようかと思案しているところでもありました。それは、単に工法というだけではないこともあります。どこに行ってもその状況に近い対策を考えて材料や工法やを適用するのでですが、基本的なやり方の応用なので似たような構造のものになります。


そんなわけで地域性が失われるように感じられる人やまた現在中心にやっている事が山の中の道と言っても、古い街道だったり里に近い場所の道だったりする事が多く、人がこれまで使っていた道が失われようとしている、しかしながらまだ使っている人がいたり、山を人の暮らしに調和的に使っていくために必要な事のための回復作業だったりするので、自然保全のための道とは意味や考え方が少し異なります。
これまでそのことを当たり前のことのように考えて作業していたのですが、ある日ある人から指摘されて自分が考えていることや道普請の作業が正しく伝わっっていないことを実感しました。このことはまた改めて記すとして、そうした活動や人からのみられ方のある中で、銀山峠の作業をご一緒した地元の年配の方から完成後に伺った感想がとても私の心に響きました。


感想内容は以下のようなことでした。
傾斜路の修復は想像していたよりも複雑で、単純なスロープを思い描いていたものと違い、地形に沿った形になって、芸術的なもののようにも思えました。

この言葉をいただいた時に、ここで一緒に作業した人には伝わっているのだなと実感し、とても感激したのでした。
私は計画上必要な工法や資材の数量を割り出すために絵図を描き出しています。しかしながら、細かいところまではなるべく描かないようにしています。何故なら、あまり複雑でも作業する人の経験値や価値観で読み取り方が違ってきたり、また季節や地盤の状況によって計画通りに行かないことが多いのからなのです。そのお陰で逆に、それぞれの場所や関わる人の違いによって同じ工法でも地域に合った形になっていくと考えていましたし、単なる土木的な作業というだけでなく、地域に根ざした美的な価値に通じるものだと思っていたからなのでした。


上の写真は敷板に滑り止めの桟木を打ち付けているところでしたが、私の絵図では必要な間隔を示しているだけです。それを参加した人たちが各々に相談して内側を細く扇状に打ち付けたのでした。そうやって全体が出来上がった時、私が芸術的に拵えたのではなく、参加した人たちとその地域の環境によって形作られた美的なものとなったのではないかと思えるのでした。
そして、そのことが一番大事なことであるように実感し、思うのでした。
改めて、私が描き、さまざまな方々とその地域で活動することの意味や価値を認識する事ができ、また自分の役割を確認する事ができたと思い、感謝しているところなのでした。


して、今これからの道普請や自分のやるべきことの方向性を考える起点にもなっているところです。後の2枚の写真は6月に銀山峠の道の状況を調査したときの写真です。機会がありましたら、是非、会津銀山街道を訪ねてみてください。(2022年11月14日、銀山峠道普請)