2021年12月31日金曜日

映画「黒い河」に関わる話

 首都圏郊外の街はどんどん変わっていく。

今や景色は自分の記憶にしか残っていないのがほとんど。日本の首都圏郊外国道16号線沿い周辺のアイデンティティの欠落は、高度経済成長による極度に自然を欠いた大量な破壊と二次生産品のモンタージュによるものであり、経済成長の裏にあるノワール的なものを歴史修正するかのように自分たちの記憶からもかき消されアイデンティティを奪われていく。(そしてそのメカニズムは今や、自然豊かな地方や歴史的な風情や建築物の多い街にも侵攻して行くように見える。)

駅周辺は随分と変わってしまった。

それでも駅前にわずかにいくつかの景色が残る。「純喫茶フロリダ」の看板、「カスタード」という洋菓子屋の看板、どちらのロゴも色もザ・昭和感。そして、外観の隠微さは無くなってしまったものの、その風情と面影を残しているのは「大和ミュージック劇場」とその下にある焼き鳥屋。劇場も焼き鳥屋も中身はほとんど変わっていないんじゃないかな。「大和ミュージック劇場」とは、半円形の小さな舞台とちょっとしたバーカウンターのあるストリップ劇場で、今は知らないが若かりし当時ダミ声でドスのきいた親父のアナウンスで演舞が展開されていた。浅草のロック座などとは全く異なる場末感満載のディープな雰囲気には、エロスよりも圧倒される何かがあって、社会学または民俗学的な興味をそそられるものがあった。初めて行った頃、恐る恐る恥ずかしげに踊り子さんを観ていたら、踊り子のネーサンに「ちょっとアンタそんなに恥ずかしそうに観られたら、こっちもやってらんないのよ!正面向いて観なさいよ!」強面に怒られた。他にもいくつかのエピソードがあるが、兎に角どう考えてもエロス的な感覚は失せ社会学的な興味に移行し何度か通うことになった。

あの頃の、あるいは自分が通う以前のあの胸の締め付けられるような場末感を辛うじて今も残しているのだ。

店の人に女の子の写真は撮らないでね、と言われ一枚だけ入り口の写真を撮らせてもらった。

この駅周辺を舞台にした小林正樹監督の「黒い河」という映画がある。自分が引っ越して来た頃にはすでにフイルムに納められたその当時の駅ではなくなっていたが、わずかに木造の駅舎の階段などの雰囲気は残っていた。有馬稲子主演の映画で仲代達也、渡辺文雄との共演の映画には、ストリップ劇場や爆音の厚木飛行場の戦闘機、バラックの小屋、在日、アカなどなど、今では記憶の彼方の時代のノワールもみることができる。そして、そうした風情が今も残るのはこのストリップ劇場ぐらいなのだ、それも「風情」ぐらい。。。

今では駅前にはスタバの入っているモダンな大きな図書館が出来ていて実に対照的な光景を目の当たりにして、「大和ミュージック劇場」の景色は影になり霞んでいる。

(アイデンティティはノワールなものに宿るものなのだろうか?)

しかし、そしてアイデンティティを葬られていったとしても、自分が生きている限りは、アイデンティティを失って行く感覚を失うことはない。そうした喪失感を留めておきたい。この劇場を見るたび、そして変わりゆく16号線を車で走り抜ける度に思うのだった。






2021年9月27日月曜日

《里山考 その3 耕作地》

《里山考 その3 耕作地》
山間部の耕作地は、集落の高齢化によって人出が少なくなり、年々放置耕作地や休耕田が増えています。まだなんらかの形で今後耕作を再開する可能性がある場合は管理休耕田として基礎自治体などから管理費が出て、草刈りなどの管理を行っています。しかし、管理費が出ても高齢化や少子化で体力や気力が続かず放棄せざるおえない事もあります。
では、放置または放棄された耕作地はどうなってしまうのかというと、例えばある水田でいうとヨシが繁茂し、ヤナギなどが生えてきます。そして、土砂や枯れ落ち葉や枝が溜まり、ある程度乾燥が進んだりすると、そこから落葉広葉樹林になってしまいます。

体力が続かなくなり米作りが難しくなり、管理休耕田にして草刈りをしているという
福島県只見町布沢(2021.09.26)

ヨシが一旦繁茂すると、水田跡に地下茎が縦横無尽に張り巡らされ、何年刈ってもヨシが絶えない状況になってしまい、さらに水田の止水層が破られて貯留機能も失われてしまいます。樹木が生えてしまえばもちろん根株を取り除かなければなりませんし、止水層を復旧する必要があり、使える水田に戻すには相当な労力が必要となってしまうというわけです。



昭和44年に廃村した集落の水田跡。ヨシが人丈以上に伸びている。
道路部分は刈り払いをおこなっているが、周囲の状況から沢水が道路に
平場に滞留しぬかるんでいるため刈り払いをやめてしまえばすぐに道路
もヨシ原になってしまう。数年前に何度か刈り払いをおこなっているが
ヨシ原に戻ってしまった。
福島県只見町布沢((2021.06.25)

今は、非効率な水田での米作は割りが合わず、買う米の方が安いという状況も起きつつあります。しかし、地域の食料自給(食の安全保障も含めて)や物の移動(車などの燃料費)の軽減を考えれば、地産地消による農業を持続させていく事が重要なことでもあります。


放置状態の水田の模式図
管理休耕田で刈り払いを行っている状態の水田

使わないにしても、理想的には水田だけでなく周囲の環境も含めて
保全することが望ましい






2021年9月24日金曜日

《里山考 その2》

 《里山考 その2》

永幡嘉之氏の著書「里山危機」を読ませてもらい「里山」という言葉が随分と最近の言葉だということがわかって、関連する言葉が気になってきた。一番古いとは限らないかもしれないが、調べた範囲で幾つかの言葉を探ってみた。
専門家でなくても、田舎や山に出かければなんとなく思い浮かぶ言葉だと思います。現代生活とは街の暮らしは随分違いと思いますが、山へのイメージは、古語の言葉や意味と今の感覚とそんなに変わらないようにも思えます。
まず、
◯「山」というのは、山そのものではないが御神体を山とする信仰の意識に求めることができるように思う。平凡社の世界大百科事典によると「山神」が、「恩頼と畏怖の観念を同時に併存させた神秘的な存在であった」とある。
◯「外山(とやま)」
「里山」に近い言葉の古い言葉で、百人一首にある
「高砂(たかさご)の尾の上(へ)の桜咲きにけり、外山(とやま)の霞立たずもあらなむ」
(遠く高い山の頂きに桜が咲いているよ、(桜が見えなくなるから)近くの山の霞が立って欲しくないな)
などと近くの山と表現されています。
◯「深山」
「いと気色(けしき)ある深山木(みやまぎ)に、宿りたる蔦の色ぞまだ残りたる」
(たいそう趣のある奥山の木に寄生する蔦の紅葉がまだ残っています)源氏物語・宿木
◯「奥山」
「奥山に紅葉(もみじ)踏み分け鳴く鹿の、声聞く時ぞ秋は悲しき」
(奥山の紅葉を踏み分けていくと鹿の鳴く声が聞こえて秋のしみじみとした感じがしますね)百人一首
◯「里(さと)」
里山はないけれど、「さと」という言葉は結構使われていて、その意味は多様で、「実家」、「自分の居場所」、「(自分の)郷里」、「地方の田舎」と文脈によって使い分けらえているようです。
「この道の八十隈(やそくま)ごとに万(よろず)かえりみすれど、いや遠にさとは離(さか)りぬ」
(この山道のくねくねと曲がるごとに何度も返り見ると、もう妻のいる家は離れてしまったよ)万葉集・柿本人麻呂
「知りたし人、さと遠くなりて音もせず」
(知り合いだった人も、わたしの家が遠くなったので訪れもしない)更級日記・菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)

《里山考 その1》

 《里山考 その1》

永幡嘉之氏の「里山危機(岩波ブックレット)」を移動や外業の合間に車中で読みました。
近年、里山についての書籍は近年色々と出版され、生態系や里山林の保全、さらには里山資本主義など色々と語られているようになりました。これらの書籍について網羅しているわけではないけれど概ね里山での自分の活動にリンクするものはそう多い印象がなく、その意味で永幡氏の東北(特に山形)をフィールドにした里山での人の活動とその環境を重ね合わせた記述は著者の現場での活動や聞き取りからのもので、わたしが山間部で活動を行う上で大いに参考になりました。
里山の定義についてなど、自分なりに活動を行う中で考えがあるけれど、永幡氏によって活字化された記述に、改めて自分の中での人の活動からの定義や考えを整理する機会となり、大いに著者に感謝申し上げます。
車中での斜め読みで、感想というのも心許ないが、文中冒頭にある
「里山という言葉が使われるようになった1980年代には....」とあり、自分が「里山」という当たり前のように使っていた言葉がそんなに最近であったかと、気づかされた。
改めて、自分が所有する書籍をパラパラと見直してみると、確かにそれ以前の書籍では里山という言葉がほとんど見つからない。それで、突き当たったのが、森林生態学者の四手井綱英氏の著書にあった、「里山」を奥山に対して使った、それまでは農用林などと言っていた、という主旨の1974年ごろの記述だった。
もっと探せば違う記述があるかもしれないけれど、「奥山」は古くから使われているのに対して、「里山」という言葉はまあまあ最近の言葉であることは確かなようです。 ===== FBで永幡氏からコメントを頂きました。以下。 Yoshiyuki Nagahata
この記事、出かける日が重なって今日拝読しました。ありがとうございます。私も、里山ということばを最初に使われたのは四手井さんだと認識しています。ただ、その用途が今でいう里山を明確に定義したものではありませんでした。一般に大きく普及するきっかけになったのは、1989年に科学朝日で石井実・植田・重松氏ら大阪府立大の皆さんが「里山のエレジー」と題して寄稿された特集記事や、その評価があまりによかったので同じ著者らが単行本「里山の自然をまもる」を出されたことあたりではなかったかと思います。つまり、表には出てこないけれども、科学朝日の編集者の柏原精一氏の果たした役割は非常に大きかった、と。 これに対する私からの返信

コメントありがとうございます。 文献、書籍は実に不勉強で補足頂きありがとうございます。永幡さんの「里山危機」に、『水田や雑木林などの「部品」を切り取っては人と自然が共存することを美化する、「里山」という言葉の独り歩きが始まった。』とありましたが、自分の活動の中では切り離されることなく連続していることが当たり前と認識していて、当たり前に共有されていると認識していたことに随分と齟齬があるのだと、改めて思い当たり、自分の活動の中で、もう少し丁寧な説明の必要性を感じました。 また、移動の機械化により、山に道路ができ木材の出荷が出来るようになったのが1965年ごろ以降、とあるのも、漠然と捉えていたことが、そう昔でもないことに改めて、昨今の急速な変化の激しさを感じさせてくれました。わたしの認識では、1961年制作の岩手県普代村の山間部の暮らしをリアルロケで映画にした「山かげにいきる人たち」に用材運搬のトラックと普代の港に置かれた用材の景色から太平洋側の東北地方では60年ごろ以前から既にかなり産業化していたように思われ、地域ごとのタイムラグがどの程度あるのか、興味が湧いているところです。 話は外れますが映画のなかの中心は炭焼き職人の家族で、炭焼き以前は北海道や樺太でニシン漁の仕事をしていたことが伺われ、山の人の暮らしの移動や変化を強いられる様子も気になるところでした。ご存知かわかりませんがリンクをつけておきますので、永幡さんにも時間があれば是非ご視聴いただければと思います。

https://youtu.be/MaPmKG9KHcc






2021年6月13日日曜日

 ウコギ(箱根にて)

5葉の掌状複葉、ヤマウコギは花が葉の影につくらしい。これは花が葉より上についているので、ヤマウコギではなくミヤマウコギのようだ。

ちなみに、米沢などで生垣にされているのは中国産のヒメウコギ(ウコギ)で、上山や山形市内の生垣でも見かけたりする。いつもよく見かけるウコギといえば、このヒメウコギで枝にはよく発達した棘があり葉の輪郭も少し異なる。
山でミヤマウコギを見かけても、同じように葉が展開すると掌状複葉するコシアブラかなとすぐに思ってしまう。うーん、でもコシアブラじゃないなぁ、と思いながら、掌状複葉する低木は山の中でそんなに色々ってわけでもないはずだがと、自分の植物の知識不足を反省する。 どうも調べると、ウコギも色々あって、エゾウコギ ケヤマウコギ ミヤマウコギ ウラジロウコギ オカウコギ ウラゲウコギなどなど。ただ普段に町や近くの山でまあまあ出会うものはヒメウコギ、ヤマウコギぐらいなのではないだろうか。写真のミヤマウコギは標高790m付近なので、近くの山というところでもないと思う。
ヒメウコギは、上杉鷹山公が救荒植物として奨励したというが、まだそれを調理して食したことがない。調理の方法でよく聞くのがウコギ飯。多分、軽く塩漬けして細かく刻んで炊きたての白米に混ぜて楽しむのだろう。湯通しすると香りが逃げてしまうから、炊きたての白飯でむす程度が良いのではないだろうか。もっとも、救荒植物といわれるぐらいだから、そうした食べ方は現代の美食的な感覚なのかもしれない。
それで思い出したのが、白米のこと。
新米が食べられるのは、現代では贅沢な感覚があるけれど、昔は古米を食べられるほど備蓄能力があるという意味でもあったという。新米しかたべられないのは、すぐに食べてしまうぐらい備蓄できないという意味で貧農の境遇をあらわす感覚でもあったようだ。だから、新米を炊いてウコギを混ぜて食してみるのは、貧農の時代のニュアンスにはあっているのかもしれない。
はなしを戻して、ミヤマウコギはあまり食べられる感じでもない。時期も新芽の時期は過ぎているし、葉はそう柔らかそうでもない。ただこうして、山中で人知れず地味な花を咲かせている健気なところを愛でてみるばかりだ。
2021年6月10日 箱根温泉荘付近