2022年8月2日火曜日

2022年度 会津銀山街道道普請 美女峠餅ケ沢工区(金山町川口高校生との地域活動/20220707)

 

 【2022年度 会津銀山街道道普請 美女峠餅ケ沢工区】

今年度の銀山街道餅ケ沢工区(昭和村)での活動は地元金山町の川口高校の学生と地元住民、企業、行政の参加で行われました。高校では前日の午前中に地域の古い道について、そして翌日の作業内容、環境方整備の意味についてレクチャーを行い座学での学びの後、実際に作業に参加するという形で活動を実施しました。


座学の風景

翌日の作業は、学生20名程度、地元住民、企業、行政の参加が20名程度で概ね40名程度の作業参加となりました。
まず、山道入口で挨拶と説明、準備体操を行い。道具と資材を分担して作業現場となる餅が沢まで人力で運搬します。一部キャタピラの運搬車を使いますが、車の入れない場所なので基本は人海です。




今回の作業現場である餅が沢は、何度かの整備を行って、一定の道路面排水ができるようになり、ぬかるみが随分と解消されたが、まだ融雪期に水みちが出来たり、水の滞留によるぬかるみが散見されていたため、これらを解消すべく、山側土側溝を形成することとしました。
これまでも土側溝を行って来ましたが、餅が沢では、上部からの土砂供給が多く、単なる掘っただけの土側溝ではすぐに側溝が埋まってしまうため、丸太組土側溝により、道路と側溝部の境界をしっかりと維持することで、土側溝機能が一定に維持される形で行います。
一昨年も同様の工法で行い、効果が確認されたので、さらに上方に向けて土側溝を延長していきます。

山側の土を掘る。

ぬかるみが多く、なかなか作業が進まない。
よく土砂災害での様子をニュースなどで見るが、実際にスコップ
やクワでの作業がどの程度大変なのかを体験することができる。




昼食は現地で弁当の支給。昨年初夏に一般参加の道普請で作ったベンチ付近で昼食を皆で食べます。





午後からの作業を再開。丸太を組み、ベンチの設置までなんとか達成。全体の延長は30メートルに及びました。ただ、幾つか作業が終わらなかった箇所があり、後日再度作業日を設けて、参加できる人を募流こととしました。



午後の作業、曽田造、ベンチの基礎地面を作る。


ベンチの完成。


土側溝の設置。
一部作業が残り、後日の作業とした。


2022年1月15日土曜日

2021年度 会津銀山街道道普請 吉尾峠昭和村側(野尻中向)

 【2021年度 会津銀山街道道普請 吉尾峠昭和村側(野尻中向)】
粗朶丸太組工木道工の形成

今回の吉尾峠道の昭和村側での道普請は、これまでよりもやや野心的な道普請となっています。これまでの旧道の保守とは異なり、完全に川に流されてしまった道を現況の自然環境を尊重しつつ、山菜摘みの産業道路であり、観光資源である景観と自然研究の道路施設として、計画整備を行っています。
自然素材による近自然工法的なやり方とはいえ、自然化してしまった環境に対しては、それなりにインパクトのあるものと言えますし、また一定の耐久性と安全性を兼ね備えた道としての機能も果たしていく必要と、管理の簡便性も持続的な維持には重要なポイントです。
流されてしまった旧道は河道となって、河床は礫質で、木道の設置のために杭などは人力で殆ど打ち込む事ができません。そのため、杭は引っ掛かる程度の支持材とし、また洗掘防止のための粗朶組、板材載せるための丸太組と架構全体で木道を維持するように計画しています。
設置後の経過維持状況を観察しながら、今後の整備の礎としていければと考えています。
また、延長の長い木道のシークエンスが、自然と調和する景観として馴染んでくれることを期待しているところです。


以前に設置した丸太橋は河川に流されてしまった。



細めの丸太杭を河道となってしまった道のラインに辛うじて立つ程度に設置し、
岸側に粗朶を敷設する。



敷設した粗朶束の上に杭に合わせて丸太を組む。



粗朶採取班と丸太組みハントに分かれて、木道設置の延長を形成していく。


粗朶が河道に交わる箇所はイワナの隠れ家になることを期待。



丸太を組んだ上に、木道となる板材を設置。


板の上に滑り止めの桟木を打ちつけて完了。



川上側のエンド部分は、直接架構への流水の影響を避けるために石積みを設置。






今回は三枚敷の板が足りず次年度の持ち越しとなり、二枚敷の部分には桟木は打たず。





その他の部分
























2022年1月2日日曜日

【四方山話・役にも立たないどうでもいい思い出話なのに意外と自分には大事という、の覚書・設計事務所のバイト】

 【四方山話・役にも立たないどうでもいい思い出話なのに意外と自分には大事という、の覚書・設計事務所のバイト】

最近歳をくったせいか、学生時代の事を思い出します。思い出しても、今後も自分の今の仕事で語ることもなかろうと思うので、FBぐらいで言っとこうか。建築から離れちゃったから、こんな話もしやすいってこともあるかも。
今の建築の学生も、色々と設計事務所の模型のバイトすると思うんだけど、今思い返すと良くやってたとも思うし、もっと違ったことにエネルギーを費やしていたらとも思う。多分、頭良い同世代の人達はもっと要領よく色々やってたんだと思うけど、自分はかなり近視眼的に目の前の模型を作ることに熱中していたように思います。
いろんな建築家の模型を作ったなぁ、
吉村順三、石井和紘、石田敏明、内藤廣、曽根幸一、磯崎新、北川原温、玄・ベルトー・進来、茂木計一郎(敬称略)、えっと、もっと他の先生のもやった気がするけど、後は三菱地所とか大手設計事務所やゼネコン設計部の模型もやりましたね。まぁ兎に角、良くも(悪くも)色々学生時代に経験させていただきました。一番多くて長らくやってたのは、磯崎さんですかね、磯崎アトリエは、秘書の網谷さんと経理の方が良くしてくれて、お金が無いとバイト代を直ぐ出してくれたので、貧乏学生の私はとても助かりました。
あぁ、
腹が減って買い食いしてたりすると、ちゃんとしたものを食べなさい、みたいに言われて磯崎さんの奥さん、愛子さんがたまにオーガニックの箱重弁当を差し入れてくれて、これも有り難かった。
大学にいるよりも長い時間磯崎アトリエに居て、家が遠かったので、比較的家が近かった一緒にバイトしていた友人の家に泊まり、また次の日にアトリエに行くということで、大学の単位はギリギリのボンクラ学生なのでした。
今の学生さんはどうなのかわかりませんが、設計事務所のバイト経験は良いとも悪いとも言えない。図を読んで形にするという経験にはなったが、それで設計が出来る様になる訳でもない。それをどう生かすかは、その人によるだろう。
自分はどうだったかと言われれば、磯崎アトリエで、模型というよりも、レリーフを作ったり、普通の模型じゃできない形を工夫して作ったり、シルクスクリーンの原画を起こす、みたいな大よそ設計とは関係のない美術造形的なところでの経験が一番楽しかったし、良かったといったところなのでしょう。
そうしているうちに、曽根(幸一)さんからは、「キミ、建築設計より模型屋になったら良いんじゃないか?」と言われ、ええっ、建築家の御用聞きの模型屋を一生やるなんて、真っ平御免といった顔をしたら、曽根さんはビジネス的に良いんじゃないかと言うことだと、言い直した。確かにその後、磯崎アトリエでは専門の模型職人を雇っていたし、模型をつくる会社も結構できたように思う。だけど、あんなプラスチック素材を中心にした不健全な諸素材を使う造形なんてどうなのか?オモチャの原型とかなら兎も角、建築とか建設とか、そうした社会インフラの計画が不自然な(今なら化石燃料を駆使したような、と言うことか)もので延々と検討するなんて、先行きがあるようにも思えん、などと思って、その後ほぼ模型はやめてしまった。
昔、東京芸大の彫刻の先生から聞いた話では、良く設計事務所のバイトに行ったと言っていた。当時はスチレンボードなど、石油由来の便利な模型材料はなく、木を削ったり切ったりして、一番加工しやすい材料でもバルサ材で、木彫の学生が重宝されたと言っていた。もしその時代に学生だったなら、木彫の延長でやっても良いと思っていたかもしれない。
時代は移り変わる。ハリウッドでも、元の模型を作るよりも、それにリアルに色やテクスチャーを貼り付けるCGの仕事の方がギャラが良いというし。今の学生も様々なソフトのCG画像でプレゼンテーションをする。それでもまだ学生課題も含めて、模型の需要はあるようだ。しかし、自分が模型を作っていた時とは随分と模型に対する意識も違ってきているようにも思える。自分には模型は、あくまでも思考のプロセスの一環だった。しかし、今はプレゼンテーションの役割の方が大きいようにも見える。周りからもそれが求められていると思います。
しかし、果たしてプレゼンテーションの立派さに見合うだけの思考の作業量や思考の質が担保されているか甚だ疑問も湧いてきます。学生だけでなく自分も、社会人も皆、思考がライトになっていってしまっているような気がしています。