2011年5月7日土曜日

被災地の現場からみえてきたもの

5月4日
宮城の内陸部と被災地を廻り、東京へ戻る途中、福島県の川俣町に立ち寄った。福島第一原発事故で、一部計画的避難地域に指定された町だ。川俣町役場へ向かう途中、野良仕事をする川俣町の年配の男性に出会った。放射線量の濃い薄いは原発の距離ではなく地形と風に非情に影響されるという。

周囲が汚染されていることを除けば、とても里山の奇麗な、そして若い堆積岩らしき少し荒っぽい摂理が特長の川の流れる阿武隈高地の麓、とても豊かな土地柄のように見える。

そのオジさんが野良仕事をする3反程度の水田は軽やかな里山を背景にうつくしく畦をつくっていた。『福島であろうが関東であろうが少なくとも3月11日以降確実になんらかの放射能汚染の影響があるだろう』そう思うと話しかけるのにすこし躊躇した。しかし、そうした躊躇もよそに、近づいて来た僕におもむろに手を 休めて「セシウムが本当にどんだけ出るか試そうと思ってるんだぁ。」と言葉を漏らした。この農地は作付け制限を受けている農地ではない。でもどんな影響があるのか自分で確かめよう としているのだ。

稲の苗床をつくる作業をしていた川俣町の農家

今年は雪がなかなか溶けなかったので作付けが遅くなる。そして
しかし今年は放射線量が米からどれだけ出るかの実験だともいう。

畦を奇麗にして水を張り、パレットを置いて、
種(米)を撒く。簡単に効率よく苗をつくるのだという。

楽観的でもなく、悲壮感でもなく淡々と、国の言うことなどあてにはできないと言う。結局は自分が確かめて自分で判断するしかない。そのために自分で出来ることやる。じつに正しい農家らしい態度だと思った。

都会の住民は未だマスメディアの論調を基準に、それが自明だと思い込んでいる。自明だと思い込んで自らは何も検証していない。ぼぉっと、テレビを眺め、テレビが安心させてくれる言葉を投げかけるのを待っているばかり。電力会社も全体像を語ることなく、少々の対処療法の報告であたかもことが安全に終息に進んでいるようなことしか述べていないのは明らかだが、それを鵜呑みにして、風評を恐れる。マスメディアの情報自体が風評なのかもしれないのに.....。それとも、実は都会の人々も気づいているのかもしれない。気づいていてもあらがえないのか....。

しかし、原発を否定しないのなら原発を肯定するなら、まず科学技術という以前の思想や倫理、人間そのものの存在について、議論が出来るところまで、考え抜いて、初めて人類、あるいは日本人の存在よりも、今の電気の方が大事と結論づけてみてほしい。それは科学者でなく原発を肯定する一般の人にも要求する。

放射能汚染は汚染前の正常な状態に戻すためには(つまり、完全に冷却されるまでに)100万年かかるという。100万年!過去にさかのぼれば北京原人が地球に現れるよりも遥か昔、今の日本の国土さえまだ形づくられる以前の話だ。未来に向かってそんな責任など誰が出来るのか?出来ないことはやってはらなない。

昨日(5月6日夜)、菅直人総理大臣が浜岡原発の全ての停止を要請した。マスコミによると所在地の市の担当者は「突然のことで驚いている.....。」と言っているそうだが、もしこれが菅首相の要請ではなく地震であったら、当然のことながら突然やってくるのだから、やはり「突然のことで驚いた。」とでも言うつもりなのだろうか?実に愚鈍で、愚かな反応だ。ましてや今はまだ福島は放射能を出し続けている訳だし、全く無関係に無関心でいたとしたら、危機管理の担当者として責務が果たせていないとしか言いようがない。もっとも、民主党の石井一という国会議員さんは災害対策副本部長であるにもかかわらず、この時期フィリピンでゴルフに興じていたと言うから、国会議員でもこの程度であれば、地方の職員ならばその程度ということか.....そんなことはないしっかりとした地方公務員もいるはずだ。街頭インタビューでも「電気がないと困る」とか「唐突ですね」などと答える人間がいることにも驚かされる。これもマスコミが原発推進寄り故に選んだインタビューだとも思うが。

愚痴を言っていてもしょうがない。みなそれぞれが、しっかりとした情報を得る努力を怠らず、真摯に後後の人々のことも考慮して、利便性よりも、国、生活の存続の是非が問われていることを自覚していくしかない。

川俣町役場にたどり着くと、庁舎は地震の被災にあっており、仮庁舎を近くの保健センターに構え運営されていた。飛騨市の災害対策支援室から来た旨を伝え、古川町長に面談することが出来た。飛騨市災害対策支援室の中畑室長は川俣町の古川町長と古くからの縁があるということで、中畑室長からの古川町長の労のねぎらい報告と計画的避難区域に指定された町内等の農家に対する飛騨市での仮就農支援について簡単に説明させて頂いた。町長にしても地元を離れさせたくない、当事者の農家の方々にとっても離れたくない、ということは十分に察せられるが、極力多くの選択肢をもっていただき、多少の希望の範囲を膨らまして頂ければという提案である。色々と住民説明もあり忙しそうではあったが、昔の中畑室長とのことを懐かしく語られ、にこやかに提案について感謝の言葉をいただき町長室を後にした。

明るく執務をこなされていたが、この町は原発の恩恵なんて全く
ないのだから.....と言いながら、忙しく電話に対応する古川町長

この役割は、自分的に如何ほどのものかという気もしたが、出来る限りのアプローチを福島の人々に出来たらと思うので、駄目もとでもやれることはやっておこうということなのかもしれない。そう自分に言い聞かせた。

被災地を訪問し、幾つかの企画を立てて返って来た。その事を「いちぐう」の編集長永田麻美氏に「ジアスニュース」のインタビュー記事にしてもらった。以下の記事をお読み頂ければ幸いです。





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