2010年9月24日金曜日

再録 / どんど焼き(2005.12.26の記事)

環境やランドスケープといった仕事をやり始めて、はじめてのどんど焼きをみる機会を得たのが、7年前。そんなに時間も経っていないような、随分経ったような。

そのとき以来、各地でどんど焼き(左義長)がおこなわれているので、気にしてはみるもののなかなか出掛ける機会には恵まれない。最近、仕事のために通った東京都の日の出町でも「どんど焼き」が年行事でおこなわれている。こちらの「どんど焼き」は、川原(平井川)でお飾りを積上げてわりと盛大のようだ。盛大と言っても、大磯の浜辺でやるものと比べるとそうでもない、という気もしないでもないが、本来、小正月はしみじみと正月(ハレ)の行事の終わりを告げるものだから、あまり盛大で、観光的になるのも違うような気がするので、程よい程度にしておいて欲しい。ましてや、花火とか打ち上げようものなら、それは違うだろ!と突っ込みたくなる。

日の出町の場合も、しみじみとあり続けて欲しいものだが、観光的に考えたい人々もいるかもしれない。「どんど焼き」の意味由来をよく考えて大人達は行事に勤しんで欲しいと思う。

それから、社会を生態学的に捉えてみると、このような行事の伝統性が守るべき地域のコミュニティや活性の持続性、継承すべき持続的文化性ということの指標になるとしたら、川原のどんど焼きは、町の文化として一つ重要なものだが、これは日の出町の生活史の一部でしかない。川原での「どんど焼き」は低地の暮らしの風物、生活史であって、同じ日の出町であっても山間部の生活史ではない。なんとなく、こちらをちょっと見捨て気味なような、そんなことが気になる。

山間部では、古くは「お炊き上げ」といって、各家の屋外に屋敷神(特にこの地域では稲荷が多い)があって、そこに年末年始にかけてのお飾りを集めて焼くそうだが、今でも続けている家が結構ある。低地部のように大きな川原がなく、集落の住戸の数も少ないため、皆でまとめて焼くという形式にはならなかったということのようだ。

環境条件によって生活史の風景も異なるということだ。ただ、全体的に行事としてのかたちは、各家のことでもあり随分と崩れているのではないかと推察される。出来れば、この日の山間の各家々で細々と煙が上がるという風景も残していって欲しいものであり、町全体でもこちらの方にも、目を向けて欲しい気がする。これが環境由来の多様性の保全であり、これからの山間部の生活、コミュニティをどう考えるか、捉えるか、ということにも繋がる、と言ったことになるのではないだろうか。山梨県で出会った「どんど焼き」の風情を思い出す度にそのようなことを感じている。(2010.09.24記す)

以下、再録記事。



【どんど焼き 2005.12.26記事】

一昨々年(2003年)のこと、年明け早々に地域の調査のために山梨へ出かけた。
都会ではその風習がほとんどすたれ、行事を見かけることもほとんどないが、まだ地方地域に出かけるとこの1月中旬から2月にかけて各地では小正月の行事が行われていたりする。小正月の由来には詳しくはないが、正月が「ハレ(非日常的な状態)」の行事だとすると小正月は「ケ(日常的な状態)」に生活をもどす、いわば「ハレ」送りの行事ともいえるのではないだろうか。その風情は日常に心とどめおく心持ちや思いを人々のなかに刻み込む行事のように思う。

そんなことを意識もせずに調査に出かけた。

しかしそこには・・・
調査した地域では小正月は道祖神のお祭りであり、どんど焼きの日でもあった。
静々とした美しい彩りの「オカザリ」があちらこちらで道祖神のあるところに立っていた。
意識していなかったことも手伝って、自分の日常からは失われたしみじみとした美しい里の風景に観いる。お祭りといっても、地域のお祭りで、べつに観光にのるようなものでもない、うつくしい日常の機微に心洗われる。





この日オカザリや様々な正月飾り、書き初めなどを地域の皆で焼くのである。そのたき火でお餅や団子、芋などを焼き、皆で食べる。オカザリの垂れ下がった竹の飾りは家の数だけあって、その部分は焼かずにクルクルと丸めて束にして、それぞれの家が持って帰る。それを屋根の上に放り投げ、家内安全のお守りにするのである。

寒空に けむりが舞い
たき火の暖かさを ほのかに感じながら
集まった人々は 大声で騒ぐでもなく
おくり火に 白い息を吐きながら 餅や芋を焼いてたべる
その山間の澄んだ空気のなかで ただただ日常への思いと機微が宙をまう

そうして日常の質がつくられていくのではないだろうか と思えるほど
そこには 限りなく澄んだ空気が漂っているようだった

クリスマスだの、お正月だの、ハレの行事の後には本来ハレ送りが必要な気がしてしまう。ハレの行事が365日日常茶飯事となった都会ではハレ送りなど意味がなくなってしまったのかもしれない。しかしどんなにハレの行事が賑やかになり、その質があがろうとも、それが本当に日常の質をたかめるもの足り得ないようにおもう。やはり、こうした静々とした送りの行事にこそ人間の日常の質がつくられていくのではないだろうか。

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