2010年11月10日水曜日

氾濫原に住むということ

現代日本人の多く住んでいる場所は、沖積層の上にある。取り分け河川の氾濫原といわれる低地の下流部に集中している。河川の性質からすると洪水のおこりやすい場所に住んでいるといえる。洪水のおこりやすい場所というのは、山から豊かな栄養素やミネラルが供給され、肥沃な土地であるともいえる。だから、先人たちは洪水との折り合いをつけながら生活を豊にし、経済を活発にしていこうと、時代を経て氾濫原に移り住むようになってきたのである。(図は南アルプス市の狭西遺跡群にみられる立地の時代的な変遷を示している。一昨年前の南アルプス市の調査業務の際に郷土史より見つけたものを見やすく修正した図である。だんだんと低地部の氾濫原近くに移り住んできたことが事例としてよくわかる。多かれ少なかれ、どこの地域でも似たような傾向があると思う。)

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しかしながら、低地部の氾濫原はもともと洪水のおこりやすい場所であることには変わりはないし、現代日本人の多く住んでいる場所は、沖積層の上にある。取り分け河川の氾濫原といわれる低地の下流部に集中している。河川の性質からすると洪水のおこりやすい場所に住んでいるといえる。洪水のおこりやすい場所というのは、山から豊かな栄養素やミネラルが供給され、肥沃な土地であるともいえる。だから、先人たちは洪水との折り合いをつけながら生活を豊にし、経済を活発にしていこうと、時代を経て氾濫原に移り住むようになってきたのである。(図は南アルプス市の狭西遺跡群にみられる立地の時代的な変遷を示している。一昨年前の南アルプス市の調査業務の際に郷土史より見つけたものを見やすく修正した図である。だんだんと低地部の氾濫原近くに移り住んできたことが事例としてよくわかる。多かれ少なかれ、どこの地域でも似たような傾向があると思う。)



しかしながら、低地部の氾濫原はもともと洪水のおこりやすい場所であることには変わりはないし、河川にとっては、氾濫を起こすことが自然の摂理であることには違いがない。そのことをだんだん人は忘れてしまったり、分からなくなってしまっていたりする。そして、ある日突然、川が氾濫を起こした時に慌てふためく。

私たちはいつの時代にも、日常の豊かさとの引き換えに、どのようなリスクを背負っているのかある程度意識している必要がある。洪水のときの排水路として川をコンクリートで固めたり、運動公園などにしてしまう前に、ほどよい川とのつきあい方をよく考えるべきだ。そして、日常的に近くの川の姿を眺め、川にふれることが必要なのだと思う。洪水時には凶器となる川の流れも、土地を肥やしてくれる大事な摂理だし、ふだんは我々の心や体を癒してくれる大切な空間なのだから・・・・。

そんなことを考えていたら、環境分析学の専門家であるジョン・エリクソンの文章をみつけた。参考程度に一文を抜き出しておこう。

「洪水というのは本質的に人災であるといってよい。洪水は自然現象であり、繰り返し生起するものである。氾濫原に人が住み着くとき、それは災害と呼ばれることとなる。氾濫原というのは洪水時に余分な水を通過させるためのものであり、人がそのことを深く理解しないために、氾濫原に無計画に開発行為を行い、その結果として水害の増大を招来するのである。氾濫原は平坦な地面、肥沃な土地、交通や水の便を提供するものの、経済性の観点が優先するとき洪水の危険を十分に考慮することなく開発が進行する。このことの帰結の一つは、政府が介入し、洪水の被害救済の責任を負うという事態である。アメリカでは、1936年以来90億ドル以上の費用を洪水防止に投じている。

こうした治水計画の進展にもかかわらず、平均的には年々洪水被害は増加している。それというのも、治水の進展の速度以上に人々が洪水被害を受けやすい地域に移り住もうとしているからである。すなわち、被害の増大は洪水そのものが激しくなったせいではなくて、人々が氾濫原に進出することの結果としてもたらされているのである。人口が増加すれば、不用意に氾濫原を開発しようとする社会的圧力が増大する。そして、ひとたび人々の財産が亡失すると、政府が救ってくれることを願うのである。」
(「海洋の神秘」ジョン・エリクソン著 大隅多加志訳 オーム社出版 p163より)

2004.12.31記す

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