2010年4月21日水曜日

大菩薩嶺のゴミ(山梨県と東京都の県境の山)

大菩薩嶺のゴミ
[2009年09月08日(火)記述]

大菩薩嶺に限った事ではないのだが、山に入るとゴミに出くわす事がたまにある。概して、低山では割と新しいゴミが、2,000m前後の山以上になると古いゴミが目立つ。いや、もしかしたら新しいゴミに埋もれて古いゴミが目立たなくなっただけかもしれない。相当大量に露出して目立っていないと、以外と気付かないかもしれない。大菩薩峠から雷岩の途中にそのゴミ達はあった。缶カラのゴミだ。よくよくそれらの缶に見入ると自分が小学生の頃かそれ以前の頃の缶のラベルのようだ。すると、30年ぐらいは前のゴミということになるな、などと検分した後、これはこれで記録として撮影しておこう、そう思って、カメラを取り出しアングル等を決めていると、
「何かありますか?」と、そこを往来する登山者に声を掛けられた。
「ええ、ゴミです。」と、



礫に埋もれ錆び付いたゴミ。奥の土の中にもゴミが詰まっていそうだ



山の自然を楽しみたくてやってきた登山者に、ゴミの話を立ち入って話してもあまり興味等ないだろうと思ったので、特に細かい説明をせずに応えた。
「ゴミですか....。」と、尋ねてきた年配の男性はしげしげとゴミを覗き込んだ。
思いのほか、興味のある人もあるのだなと、予想を裏切る反応にすこし驚いていると、娘さんらしき連れの女性もやってきて一緒に見入る。そこまで興味を持たれたら、何か説明しないと不親切になるかと思い、

「この缶のラベルからすると30 年ぐらい前の.....。ほら、ファンタとか、このアサヒの缶ビールなんて、今はみないでしょう。」

「あ、ほんとだ。」

そんなやり取りをしていると、他の登山客も集まってきた。



「わざわざ土がかぶせてあるね。」

「昔、誰かが捨ててったのだろうね。」

「そういうのが普通だったのかね。」

などと、色々それぞれに推理を働かせて、ゴミについての感想を述べたりしている。
「こういうものも、負の遺産として記録してみようかと....。」と、何故見入っているのかを説明すると、皆さん納得するように、入れ替わり立ち代わり、思いのほか長らく皆興味深げに覗いていく。日曜日の大菩薩嶺は登山者(ハイキングに近い山だが)の往来が多い。久しくメジャーな山に登っていなかったので、人の往来の多さにもびっくりしていたのだが、こうした環境の事にも最近は以外と興味を持ってくれるものだと、正直驚きだった。

そんな風に人が集まってくるので、あまり講釈をぶってもどうかと思いつつ、すこし周りの景色の事も話してみた。普段だったら、富士山がよく眺められるところなのだが、その日はあいにくの曇り模様で、眺望はきかない。周囲の植生の話等を少々。

この山頂付近はウラジロモミとトウヒ、イラモミ(他にも色々あったのだろうが、今回あんまり植生には気を止めていなかったので、見掛けて覚えているもののみ、)等が混生している。大菩薩峠から下の方はミズナラを中心にモミやコメツガなどもみえる(下山する時に分かったのだが、丸川峠から下は砂地と砂礫の多い土質でコメツガを中心とした森だった。その下はブナ、イヌブナ、ミズナラの林で、フサザクラに代表される渓流の植生に至った)。登山道に沿った景観からは外れるが、途中麓付近でみた人為的に植えられたであろうクリ林(これとは別に大菩薩には天然のクリ林もあるらしい)や旧薪炭林の話もした。眼下に見るダム湖の際に植物がなかなか育たない状況等も説明する。



「そういうのがわかると、違ってみえるね。」といい、雲のかかった景色を観ている。
環境や人の生活の生業、土地利用の問題として山や自然を観察するのが当たり前になってしまった自分と比べて、そういう話を聞きながら、どんな風に感じているのだろう。そう思いながら、あまり足を止めさせても申し訳ないかと思い、適当に話を切り上げた。
最後まで耳を傾けてくれた父娘(多分?)と別れた後、興味をもってもらえた事はうれしかったが、そんな話をしても良かったのだろうか?と自問した。

同じ樹木でも吹きさらしのところに生えているもの(上の写真)は風衝樹形となって斜めに変形し、枝の伸び方も風上と風下とでは違う、すこし下って風の吹きさらしがないところではすぅーと真っ直ぐに樹形が伸びる。そういう話だってある。それとも、ナナカマドやサラサドウダンの咲く六月頃に来れば、花が楽しめるとか、もう少し秋も深まり空気も澄んだ頃に来れば、富士山がよく見えるはずだとか....。そういう話の方が良かったか?とか....。

ただ、実際のところ、僕としては、途中横切った賽の河原(さいのかわら)の景色とゴミの景色に山にみる人の生活と業について思い至っていたので、あまり話しをし過ぎて変に深すぎるところまで話題を振りまかなくて良かったとも思った。せっかくの自然を味わう休日に重いテーマを与えてしまっては、さすがに僕でも気がとがめるものだ。
まぁ、珈琲でも入れて、出会った人々と少しゆっくりいつもと違う事を考える、そういう機転もあったと思うが、そこまでは気が廻らなかった(大体、いつも湯を沸かし珈琲を入れてくれるのは同行する豊田さんだし、僕はポットに珈琲を入れてくるぐらい。しかも、その日は寝坊してポットに珈琲を入れてくるどころか電車も乗り遅れた。いや申し訳ない)。



大菩薩嶺・賽の河原付近、中央にみえる小屋は避難小屋


さて、人前で話せなかったからという訳ではないが、ここで賽の河原の話をもう少し考えてみたい。大菩薩嶺は深田久弥の百名山にも出てくる山だが、大菩薩峠というぐらいで、徒歩が交通の多くの人々にとって中心手段だった時代は交通の通過拠点であって、山といってもかなり人臭い山である。人臭いといって毛嫌いする訳ではなく、僕にとっては完全に人の立ち入る事のない原生的な大自然よりも興味を覚える。で、その峠から少し離れて鞍状になったガレた地形に賽の河原がある。この賽の河原と呼ばれる場所は日本全国にある。特に有名なのが、東北地方恐山のそれである。賽の河原にはそこここに石が積まれている。それをケルンと言って道標だと思っている人も少なくないが、結果として道標になっていたとしても、賽の河原に積まれた石には元来それとは異なる由来が存在する。

積み上げられた石の塚は、村の境や行路往来の要等のある種の結界を意味する。そして石塚の点在する賽の河原は、あの世とこの世を結ぶ結界のゾーン(空間)である。鞍状の砂礫の裸地は、残雪作用によって他の場所と比べて植生の侵入を拒んでいるために形成される訳だが、それが河原の砂礫地によく似ているために「河原」とよばれる。

川の河原はつねにものの移動がおこなわれ撹乱地となっているために、森羅万象のものが往来する場所としてみなされてきた。それがあの世とこの世を結ぶ結界としての意味である。川の河原では、埋葬や神事がおこなわれ、万物の流転に同期して、魂の浄化と肉体の自然回帰、新たな再生への願いが託される。



大菩薩嶺・賽の河原に積み上げられた石の塚


不慮の死を遂げた子供は大人と比べて遥かに簡便にこうした賽の河原や、里と山との結界となる石塚などに葬られたという。経済的な理由も含めて、子供というのはまだこの世の存在として不明瞭な立場にあると考えられていたために、早々にあの世へ返し、再びの生を願ったという。子供の亡霊が地獄の淵の賽の河原で石を積む、鬼が出てきてはこれを崩す。子供の亡者は地蔵菩薩によって救われるまでこれを繰り返すという話もあるが、そこは往来のある場所、死んだと思って捨てられた子供が通りすがりの者に塚から拾い上げられ、優れた高僧になったという伝説も多い。けして地獄の入口ではない、死と再生の神聖な場所だといえる。

ゴミの捨てられていたのは賽の河原ではなかったが、すぐ近くの尾根筋にあたる風食裸地で河原と同様すこしガレたところである。このゴミの捨てられた時期、生産一辺倒の経済成長期の欠落は、必ずやってくる死への思いやりだと僕は考える。その事は風土も歴史も環境にも無配慮に神聖な結界にゴミを打ち捨ててしまうことをみても明らかに証明している。そして、今もその延長でその無配慮な精神性は現代の都市化された生活、死は社会からなるべく切り離し、存在しないように扱うことで、死への軽率な態度は現代社会に継続されているようにみえる。病魔に襲われた人々は病院へ、死に至れば近代化したおよそ死とは結びつきにくい火葬場、メモリアルホールと言う名の閉じた空間で、現代の死に際の質は必要以上に無機化する。そして人間の尊厳は物理的に四角四面の箱に閉ざされ、おおよそ空間と言うものを感じさせないために、生き残るものどもへの思いのやり場は省力化されている。賽の河原の空間性は現代に残された数少ない、連綿と続く歴史や風土に裏打ちされたあの世とこの世の結界ともいえる。現実にいずれ来る自らの死が現代の浅はかさに埋もれるとしても、せめて生きているうちに形骸的な生活感にとらわれず、荒涼とした賽の河原で現代人は自らの精神を反芻してみることも必要かもしれないとも思う。

次回は、もう少し遠方の見渡せるようになった冬の頃に訪れてみよう。(文責:田賀陽介)


(上から1、2枚目、田賀撮影。3枚目、4枚目、豊田利明撮影。5、6、7枚目田賀撮影)

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