2010年4月21日水曜日

大菩薩峠再訪

九月(2009年9月6日)に登った大菩薩峠山頂付近で見つけたゴミの事が気になっていた。その時は、発見したのだし、多少はゴミを拾う義務もあるだろうと思ったが、ゴミ袋の持ち合わせが無くゴミを持ち帰るのを諦めた。

それで、今回は奥多摩の小菅村方面へ降りて、違うルートを辿ってみるということにして、近頃やたらと山登り好きになっている仕事の先輩と秋(2009年11月8日)の大菩薩を登った。


大規模にゴミ拾いという訳にもいかなかったが、目についたゴミは拾った。古い缶空のゴミが多かった。高度成長期昭和30年後半から昭和40年代の登山ブームの時代のモノだろう。



今の若者を揶揄する年配達が若い頃に捨てていったゴミという見方もできる。遠方の夢のような幻想的な富士を眺めつつ、自分たちの足下をだらし無く汚していった。

そして、今の今まで誰一人としてその事に気付かぬふりをして、放置されていた訳だ。この山は名前が有名なこともあり、また割と登りやすい山なので、訪れる人も多い。しかし誰もゴミは拾わぬ。一緒に登った先輩さえ、拾っているところを撮影してくれはしたが、一緒に拾おうとは考えぬものらしい。僕は一緒に拾ってくれとは言わない。行為は個人の感覚や自覚に委ねられている。個人が当事的に感じ思えなければ、ゴミ拾いなどやらないのは当然だと思うからだ。むしろ、その行為によって僕自身が僕自身の中で、やはり僕は偽善者なのか?と感じてしまう事で嫌な気分になってしまう。それは僕が感じている社会というものと、自分の自意識との間にある大きな溝からきていることは間違いが無い。

偽善者なのか?と自分の事を問わざるおえないほど、ちょっとした行為も個人の心理の中ではマイナス行為になりやすい。だから人々は消極的になりやすい。今の社会はそういう社会だ。そういう社会で良い、社会とはそういうものだ、そう考える人も多いかもしれない。では、そういう社会に納得出来ない僕などはどうやって生きていけば良いと言うのだ。偽善者となっても、やらざるおえない。そう、自分を納得させるしかないのだ。そして、後継のもの達に何か伝えるだけの強さと意味を僕自身が持ち得るのかと問い続ける。(文責:田賀陽介)

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